設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
% | % | % | % | px |
この帖の主な登場人物 | |||
---|---|---|---|
登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
光る源氏 | ひかるげんじ | 大将の君 大将 大将殿 男君 |
二十二歳から二十三歳;参議兼近衛右大将 |
頭中将 | とうのちゅうじょう | 三位中将 中将の君 中将 |
葵の上の兄 |
桐壺帝 | きりつぼのみかど | 院 帝 |
光る源氏の父 |
弘徽殿女御 | こうきでんのにょうご | 今后 后 |
桐壷帝の女御;東宮の母 |
藤壺の宮 | ふじつぼのみや | 后の宮 中宮 |
桐壷帝の后;光る源氏の継母 |
葵の上 | あおいのうえ | 大殿 殿 姫君 |
光る源氏の正妻 |
六条御息所 | ろくじょうのみやすどころ | 御息所 女 |
光る源氏の愛人 |
紫の上 | むらさきのうえ | 姫君 二条の君 対の姫君 女君 |
光る源氏の妻 |
朧月夜の君 | おぼろづきよのきみ | 御匣殿 |
右大臣の娘;弘徽殿女御の妹 |
朝顔の姫君 | あさがおのひめぎみ | 姫君 朝顔の宮 |
式部卿宮の娘;光る源氏の恋人の一人 |
第八帖 花宴 光る源氏二十歳春二月二十余日から三月二十余日までの宰相兼中将時代の物語 |
||||||||||||||||||||||||||
# |
本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
||||||||||||||||||||||
朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語 |
||||||||||||||||||||||||||
第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴 |
||||||||||||||||||||||||||
1.1.1 | 如月の二十日過ぎ、南殿の桜の宴をお催しあそばす。 皇后、春宮の御座所、左右に設定して、参上なさる。 弘徽殿の女御、中宮がこのようにお座りになるのを、機会あるごとに不愉快にお思いになるが、見物だけはお見過ごしできないで、参上なさる。 |
二月の二十幾日に |
【如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ】- 新年立によれば源氏二十歳の春の物語。前巻「紅葉賀」の紅葉の賀と当巻桜の宴の対偶仕立て。「南殿」は紫宸殿、なお陽明文庫本と肖柏本は「なんてん」と仮名表記する。したがって、読み方は「なんでん」である。 【后、春宮の御局、左右にして】- 后は藤壺、春宮は後の朱雀帝をさす。玉座(桐壺帝)の左側(東)に東宮、右側(西)に藤壺中宮の御座所を設けた。 |
|||||||||||||||||||||||
1.1.2 | さての |
その日はとてもよく晴れて、空の様子、鳥の声も、気持ちよさそうな折に、親王たち、上達部をはじめとして、その道の人々は皆、韻字を戴いて詩をお作りになる。 宰相中将、「春という文字を戴きました」と、おっしゃる声までが、例によって、他の人とは格別である。 次に頭中将、その目で次に見られるのも、どう思われるかと不安のようだが、とても好ましく落ち着いて、声の上げ方など、堂々として立派である。 その他の人々は、皆気後れしておどおどした様子の者が多かった。 地下の人は、それ以上に、帝、春宮の御学問が素晴らしく優れていらっしゃる上に、このような作文の道に優れた人々が多くいられるころなので、気後れがして、広々と晴の庭に立つ時は、恰好が悪くて、簡単なことであるが、大儀そうである。 高齢の博士どもの、姿恰好が見すぼらしく貧相だが、場馴れているのも、しみじみと、あれこれ御覧になるのは、興趣あることであった。 |
日がよく晴れて青空の色、鳥の声も朗らかな気のする南庭を見て親王方、高級官人をはじめとして詩を作る人々は皆 |
【探韻賜はりて文つくりたまふ】- 『集成』は「韻字(漢詩を作る時、韻を踏むために句の末に置く字)を書いた紙を入れた鉢を庭中に立てた文台の上に置き、一人ずつ手を入れて韻字を探り取り、詩を作ること」と注す。「文」は漢詩のこと。 【宰相中将】- 源氏をさす。公式の場での呼称。 【春といふ文字賜はれり】- 源氏の詞。 【例の、人に異なり】- 「例の」で読点。例によって、他の人とは異なっている、の意。 【人の目移し】- 「人」は源氏をさす。源氏を直前に見た目には。 【臆しがちに鼻白める多かり】- 『集成』は「おじ気づいて冴えない顔色の者が多い」と解す。『完訳』は「気おくれして戸惑っている人」と注す。 【地下の人】- 清涼殿の殿上間に昇殿を許されない人。「ぢげ」と読む。 【まして】- 「恥づかしく」に続く。「帝春宮の御才」以下「ころなるに」まで挿入句となる。 |
||||||||||||||||||||||
1.1.3 | やうやう |
舞楽類などは、改めて言うまでもなく万端御準備あそばしていた。 だんだん入日になるころ、春鴬囀という舞、とても興趣深く見えるので、源氏の御紅葉の賀の折、自然とお思い出されて、春宮が、挿頭を御下賜になって、しきりに御所望なさるので、お断りし難くて、立ってゆっくり袖を返すところを一さしお真似事のようにお舞いになると、当然似るものがなく素晴らしく見える。 左大臣は、恨めしさも忘れて、涙を落としなさる。 |
奏せられる音楽も特にすぐれた人たちが選ばれていた。春の |
【さらにもいはずととのへさせたまへり】- 「させ」(尊敬の助動詞)「給へ」(尊敬の補助動詞)、その主催者である帝に対する二重敬語、すなわち最高敬語である。 【春の鴬囀るといふ舞】- 春鴬囀の舞をいう。右方の高麗楽に対して左方の唐楽の壱越調の曲。襲装束に鳥兜を着け四人、六人または十人で舞うという。女楽である。源氏が一人で舞う。 |
||||||||||||||||||||||
1.1.4 | 「頭中将は、どこか。 早く」 |
「頭中将はどうしたか、早く出て舞わぬか」 |
【頭中将、いづら。遅し】- 帝の詞。 |
|||||||||||||||||||||||
1.1.5 | との仰せなので、柳花苑という舞を、この人はもう少し念入りに、このようなこともあろうかと、心づもりをしていたのであろうか、まことに興趣深いので、御衣を御下賜になって、実に稀なことだと人は思った。 上達部は皆順序もなくお舞いになるが、夜に入ってからは、特に巧拙の区別もつかない。 詩を読み上げる時にも、源氏の君の御作を、講師も読み切れず、句毎に読み上げては褒めそやす。 博士どもの心中にも、非常に優れた詩であると認めていた。 |
次いでその仰せがあって、 |
【柳花苑といふ舞】- これも左方の唐楽で双調の曲。四人の女舞。頭中将が一人で舞う。 【かかることもや】- 帝から頭中将に源氏の舞に番えて何か舞を舞うようにとのご下命があること。以下「と心づかひやしけむ」まで、語り手の推測の挿入句。 【乱れて舞ひたまへど】- 『集成』は「順序もなく」と注す。 【けぢめも見えず】- 『集成』は「巧拙の区別も」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
1.1.6 | かうやうの |
このような時でも、まずこの君を一座の光にしていらっしゃるので、帝もどうしておろそかにお思いでいられようか。 中宮は、お目が止まるにつけ、「春宮の女御が無性にお憎みになっているらしいのも不思議だ、自分がこのように心配するのも情けない」と、自身お思い直さずにはいらっしゃれないのであった。 |
こんな時にもただただその人が光になっている源氏を、父君陛下がおろそかに思召すわけはない。中宮はすぐれた源氏の美貌がお目にとまるにつけても、東宮の母君の女御がどんな心でこの人を憎みうるのであろうと不思議にお思いになり、そのあとではまたこんなふうに源氏に関心を持つのもよろしくない心であると思召した。 |
【春宮の女御の】- 以下「かう思ふも心憂し」まで、藤壺の心。語り手の間接的表現であろう。「春宮の女御」は春宮の母女御の意。 |
||||||||||||||||||||||
1.1.7 | 「何の関係もなく花のように美しいお姿を拝するのであったなら 少しも気兼ねなどいらなかろうものを」 |
大かたに花の姿を見ましかば つゆも心のおかれましやは |
【おほかたに花の姿を見ましかば--つゆも心のおかれましやは】- 藤壺の独詠歌。「花」は源氏を譬喩。「露」は「つゆ」(副詞)と「露」(名詞)の掛詞。「花」と「露」、「露」と「置く」はそれぞれ縁語。『完訳』は「前の「おほけなき心のなからましかば」(紅葉賀)とも同じ発想で、「--ましかば--まし」の反実仮想の構文に源氏賞賛の心を封じこめる」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
1.1.8 | 御心中でお詠みになった歌が、どうして世間に洩れ出てしまったのだろうか。 |
こんな歌はだれにもお見せになるはずのものではないが、どうして伝わっているのであろうか。 |
【御心のうちなりけむこと、いかで漏りにけむ】- 『一葉集』は「草子の詞也」と指摘。『評釈』は「藤壺がひそかに心の中でよんだ歌を、ここにしるす矛盾についての弁解である。人の話の聞書という形でこの物語は書かれている」と解説し、『完訳』は「語り手の言葉。漏れるはずがないとして藤壺の内心に立ち入る」と注す。先の和歌に藤壺の心の真実が語られていることを読者に喚起させる。 |
|||||||||||||||||||||||
第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う |
||||||||||||||||||||||||||
1.2.1 | 夜もたいそう更けて御宴は終わったのであった。 |
夜がふけてから南殿の宴は終わった。 |
【夜いたう更けてなむ、事果てける】- 『集成』はこの一文は前の文章に続け、「上達部」以下を改行し、段落を改める。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.2 | 上達部はそれぞれ退出し、中宮、春宮も還御あそばしたので、静かになったころに、月がとても明るくさし出て美しいので、源氏の君、酔心地に見過ごし難くお思いになったので、「殿上の宿直の人々も寝んで、このように思いもかけない時に、もしや都合のよい機会もあろうか」と、藤壷周辺を、無性に人目を忍んであちこち窺ったが、手引を頼むはずの戸口も閉まっているので、溜息をついて、なおもこのままでは気がすまず、弘徽殿の細殿にお立ち寄りになると、三の口が開いている。 |
【月いと明うさし出でて】- 冒頭に「如月の二十日あまり」とあったから、二十日過ぎの月、夜半過ぎに出る。 【上の人びともうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある】- 源氏の心にそった語り手の間接的心内描写。地の文が心中文に移る。「もしさりぬべき隙もやある」は完全な心中文。「上の人びとも」を『集成』は「清涼殿の宿直の人々」と解し、『完訳』は「帝にお付きの女官たち」と解す。 【なほあらじに】- 語り手の源氏の心内に立ち入った挿入句。このままでは済まされないとの気持ちからの意。 |
||||||||||||||||||||||||
1.2.3 | 女御は、上の御局にそのまま参上なさったので、人気の少ない感じである。 奥の枢戸も開いていて、人のいる音もしない。 |
女御は宴会のあとそのまま宿直に上がっていたから、女房たちなどもここには少しよりいないふうがうかがわれた。この戸口の奥にあるくるる戸もあいていて、そして人音がない。 |
||||||||||||||||||||||||
1.2.4 | 「このような無用心から、男女の過ちは起こるものだ」と思って、そっと上ってお覗きになる。 女房たちは皆眠っているのだろう。 とても若々しく美しい声で、並の身分とは思えず、 |
こうした不用心な時に男も女もあやまった運命へ踏み込むものだと思って源氏は静かに縁側へ上がって中をのぞいた。だれももう寝てしまったらしい。若々しく貴女らしい声で、 |
【かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし】- 源氏の心。「かやうにて」は女方の無用心をさす。女方を非難しながら源氏自身事件を引き起こして行く。 【やをら上りて】- 『集成』と『新大系』は「細殿に」と解し、『完訳』は「細殿から下長押に上って」と解す。 【なべての人とは聞こえぬ】- 挿入句のようだが、「聞こえぬ」が連体形のため、その下に「女が」などの主語が省略されている構文なので、いったん文が切れそうで再び次の文を呼び起こして続いていくという緩急と緊密性をもたせた表現。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.5 | 「朧月夜に似るものはない」 |
「 |
【朧月夜に似るものぞなき】- 右大臣の六の君、朧月夜の君の詞。「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」(大江千里集、後に新古今集・春上に入集)の第五句を改変して口ずさんだ。『集成』は「第五句「しくものぞなき」(まさるものはない)が、漢詩文風な表現なので、「似るものぞなき」と、やわらげて言ったものか」と注す。なお、世尊寺伊行『源氏釈』は「しくものぞなき」の句で引用するが、藤原定家『奥入』では「似るものぞなき」の句で引用する。『千里集』の成立から、次の『新古今集』入集までの間に「似るものぞなき」という異本の発生も考えられなくはないが、現存の本には「似るものぞなき」の句はない。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.6 | と口ずさんで、こちらの方に来るではないか。 とても嬉しくなって、とっさに袖をお捉えになる。 女、怖がっている様子で、 |
と歌いながらこの戸口へ出て来る人があった。源氏はうれしくて突然 |
【こなたざまには来るものか】- 語り手の源氏と共に驚きの気持ちを表した感情移入の表現。こちらに来るではないかの意。なお明融本は「こなたさまには」とあり朱筆で「は」をミセケチにしまたその右に「不用」とある。大島本と陽明文庫本は「は」を補入した形。その他の青表紙本諸本は「こなたさまには」とある。底本は明融本の「は」不用説に従った本文ということになる。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.7 | 「あら、嫌ですわ。 これは、どなたですか」とおっしゃるが、 |
「気味が悪い、だれ」と言ったが、 |
【あな、むくつけ。こは、誰そ】- 女の詞。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.8 | 「 |
「どうして、嫌ですか」と言って、 |
「何もそんなこわいものではありませんよ」と源氏は言って、さらに、 |
【何か、疎ましき】- 源氏の詞。 |
||||||||||||||||||||||
1.2.9 | 「趣深い春の夜更けの情趣をご存知でいられるのも 前世からの浅からぬ御縁があったものと存じます」 |
深き夜の哀れを知るも入る月の おぼろげならぬ契りとぞ思ふ |
【深き夜のあはれを知るも入る月の--おぼろけならぬ契りとぞ思ふ】- 源氏の贈歌。出会ったことの宿世の深さをいう。 |
|||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||
1.2.10 | とて、やをら あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。 わななくわななく、 |
と詠んで、そっと抱き下ろして、戸は閉めてしまった。 あまりの意外さに驚きあきれている様子、とても親しみやすくかわいらしい感じである。 怖さに震えながら、 |
とささやいた。抱いて行った人を静かに一室へおろしてから三の口をしめた。この不謹慎な |
|||||||||||||||||||||||
1.2.11 | 「ここに、 |
「ここに、人が」 |
「ここに知らぬ人が」 |
【ここに、人】- 女の詞。書陵部本「の」補入。その他の青表紙諸本ナシ。河内本もナシ。別本の御物本だけが「こゝに人の」とある。書陵部本は御物本系統の本によって補ったものか。それらによれば「ある」などの語句が省略された言いさした形。 |
||||||||||||||||||||||
1.2.12 | と、のたまへど、 |
と、おっしゃるが、 |
と言っていたが、 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.13 | 「わたしは、誰からも許されているので、人を呼んでも、何ということありませんよ。 ただ、じっとしていなさい」 |
「私はもう皆に同意させてあるのだから、お呼びになってもなんにもなりませんよ。静かに話しましょうよ」 |
【まろは、皆人に許されたれば】- 以下「ただ忍びてこそ」まで、源氏の詞。源氏の自負が語られる。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.14 | とのたまふ わびしと |
とおっしゃる声で、この君であったのだと理解して、少しほっとするのであった。 やりきれないと思う一方で、物のあわれを知らない強情な女とは見られまい、と思っている。 酔心地がいつもと違っていたからであろうか、手放すのは残念に思われるし、女も若くなよやかで、強情な性質も持ち合わせてないのであろう。 |
この声に源氏であると知って女は少し不気味でなくなった。困りながらも冷淡にしたくはないと女は思っている。源氏は酔い過ぎていたせいでこのままこの女と別れることを残念に思ったか、女も若々しい一方で抵抗をする力がなかったか、二人は陥るべきところへ落ちた。 |
【この君なりけり】- 女の心中を間接的に表現。「この君」は源氏をさす。 【情けなくこはごはしうは見えじ】- 女の心中叙述。 【酔ひ心地や例ならざりけむ】- 語り手の推測を交えた挿入句。以下「知らぬなるべし」まで、語り手の推測を交えた文が続く。『完訳』は「以下「(源氏も)--けん」「女も--べし」と、語り手の推量に委ねながら、二人の情交を暗示」と指摘。 |
||||||||||||||||||||||
1.2.15 | かわいらしいと御覧になっていらっしゃるうちに、間もなく明るくなって行ったので、気が急かれる。 女は、男以上にいろいろと思い悩んでいる様子である。 |
【ほどなく明けゆけば】- 『完訳』は「官能の時間が一瞬に過ぎる」と注す。 【女は、まして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり】- 「まして」とあるので、源氏も惑乱しているが、女の方はそれ以上であると語る。 |
||||||||||||||||||||||||
1.2.16 | 「やはり、お名前をおっしゃってください。 どのようして、お便りを差し上げられましょうか。 こうして終わろうとは、いくら何でもお思いではあるまい」 |
「ぜひ言ってください、だれであるかをね。どんなふうにして手紙を上げたらいいのか、これきりとはあなただって思わないでしょう」 |
【なほ、名のりしたまへ】- 以下「思されじ」まで、源氏の詞。「なほ」は、それまでに何度も名を尋ねていたことを表す。語られてない部分のあることを示す。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.17 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
などと源氏が言うと、 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.18 | 「不幸せな身のまま名前を明かさないでこの世から死んでしまったなら 野末の草の原まで尋ねて来ては下さらないのかと思います」 |
うき身世にやがて消えなば尋ねても 草の原をば訪はじとや思ふ |
【憂き身世にやがて消えなば尋ねても--草の原をば問はじとや思ふ】- 前の源氏の歌に対する返歌というよりも新たに詠んだ女の贈歌。この歌には相手の歌句を引用して返すということをしてない。この間に、時間の経過があったことをも思わせる。『完訳』は「名を知らぬからとて、「草の原」(死後の魂のありか)を尋ねないつもりか、の問いかけは、男に心を傾けてしまった女の、相手に情愛を確かめる気持。源氏が執拗に名を尋ねるのに応じた内容だが、和歌としては贈歌の趣である」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.19 | と |
と詠む態度、優艶で魅力的である。 |
という様子にきわめて |
|||||||||||||||||||||||
1.2.20 | 「ごもっともだ。 先程の言葉は申し損ねました」と言って、 |
「そう、私の言ったことはあなたのだれであるかを捜す努力を惜しんでいるように聞こえましたね」と言って、また、 |
【ことわりや。聞こえ違へたる文字かな】- 源氏の詞。「文字」は言葉の意。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.21 | 「どなたであろうかと家を探しているうちに 世間に噂が立ってだめになってしまうといけないと思いまして |
「 |
【いづれぞと露のやどりを分かむまに--小笹が原に風もこそ吹け】- 源氏の返歌。「草の原」を受けて「小笹が原」と詠む。「露のやどり」に女の住む家を譬喩する。「露」「笹」「風」は縁語。「風もこそ吹け」は噂が立ったら大変だの意。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.22 | 迷惑にお思いでなかったら、何の遠慮がいりましょう。 ひょっとして、 |
私との関係を迷惑にお思いにならないのだったら、お隠しになる必要はないじゃありませんか。わざとわからなくするのですか」 |
【わづらはしく】- 以下「すかいたまふか」まで、歌に続けた源氏の詞。『完訳』は「迷惑にお思いでないなら、何で私が遠慮などいたしましょう」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.23 | とも |
とも言い終わらないうちに、女房たちが起き出して、上の御局に参上したり下がって来たりする様子が、騒がしくなってきたので、まことに仕方なくて、扇だけを証拠として交換し合って、お出になった。 |
と言い切らぬうちに、もう女房たちが起き出して女御を迎えに行く者、あちらから下がって来る者などが廊下を通るので、落ち着いていられずに扇だけをあとのしるしに取り替えて源氏はその室を出てしまった。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.24 | 桐壷には、女房が大勢仕えていて、目を覚ましている者もいるので、このようなのを、 |
源氏の |
||||||||||||||||||||||||
1.2.25 | 「何とも、 |
「いつもいつも、まあよくも続くものですね」 |
【さも、たゆみなき御忍びありきかな】- 女房の詞。 |
|||||||||||||||||||||||
1.2.26 | とつきしろひつつ、そら |
と突つき合いながら、空寝をしていた。 お入りになって横になられたが、眠ることができない。 |
という意味を仲間で |
|||||||||||||||||||||||
1.2.27 | 「をかしかりつる まだ なかなかそれならましかば、 わづらはしう、 |
「美しい人であったなあ。 女御の御妹君であろう。 まだうぶなところから、五の君か六の君であろう。 帥宮の北の方や、頭中将が気にいっていない四の君などは、美人だと聞いていたが。 かえってその人たちであったら、もう少し味わいがあったろうに。 六の君は春宮に入内させようと心づもりをしておられるから、気の毒なことであるなあ。 厄介なことだ、尋ねることもなかなか難しい、あのまま終わりにしようとは思っていない様子であったが、どうしたことで、便りを通わす方法を教えずじまいにしたのだろう」 |
美しい感じの人だった。女御の妹たちであろうが、処女であったから五の君か六の君に違いない。 |
【をかしかりつる人のさまかな】- 以下「教へずなりぬらむ」まで、源氏の心中。 【帥宮】- 源氏の弟、後の螢兵部卿宮。 【なかなかそれならましかば、今すこしをかしからまし】- 「ましかば--まし」は反実仮想の構文。かえってそういった人妻であったらもっと味わいがあったろうに、そうでなくて残念だの意。 |
||||||||||||||||||||||
1.2.28 | などと、いろいろと気にかかるのも、心惹かれるところがあるのだろう。 このようなことにつけても、まずは、「あの周辺の有様が、どこよりも奥まっているな」と、世にも珍しくご比較せずにはいらっしゃれない。 |
などとしきりに考えられるのも心が |
【心のとまるなるべし】- 語り手の源氏の心を推測した文。『岷江入楚』は「草子地なり」と指摘。 【かのわたりのありさまの、こよなう奥まりたるはや】- 源氏の心。「かのわたり」は藤壺をさす。 |
|||||||||||||||||||||||
第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる |
||||||||||||||||||||||||||
1.3.1 | その 「かの |
その日は後宴の催しがあって、忙しく一日中お過ごしになった。 箏の琴をお務めになる。 昨日の御宴よりも、優美に興趣が感じられる。 藤壷は、暁にお上りになったのであった。 「あの有明は、退出してしまったろうか」と、心も上の空で、何事につけても手抜かりのない良清、惟光に命じて、見張りをさせておかれたところ、御前から退出なさった時に、 |
この日は |
【藤壺は、暁に参う上りたまひにけり】- 清涼殿の上の御局に。 【かの有明、出でやしぬらむ】- 源氏の心。「有明」は昨夜の弘徽殿の細殿で邂逅した女をさす。「有明」と「出づ」は縁語、さらにその下の「心も空にて」の「空」も。意識的にしゃれた文章表現をしたもの。 【良清、惟光】- 「良清」は「若紫」巻初出、「惟光」は「夕顔」巻初出の源氏の乳母子。 【御前よりまかでたまひけるほどに】- 主語は源氏。 |
||||||||||||||||||||||
1.3.2 | 「ただ けしうはあらぬけはひどもしるくて、 |
「たった今、北の陣から、あらかじめ物蔭に隠れて立っていた車どもが退出しました。 御方々の実家の人がございました中で、四位少将、右中弁などが急いで出てきて、送って行きましたのは、弘徽殿方のご退出であろうと拝見しました。 ご立派な方が乗っている様子がはっきり窺えて、車が三台ほどでございました」 |
「ただ今北の御門のほうに早くから来ていました車が皆人を乗せて出てまいるところでございますが、女御さん方の実家の人たちがそれぞれ行きます中に、四位少将、右中弁などが御前から下がって来てついて行きますのが弘徽殿の実家の方々だと見受けました。ただ女房たちだけの乗ったのでないことはよく知れていまして、そんな車が三台ございました」 |
【ただ今】- 以下「車三つばかりはべりつ」まで、良清、惟光らの詞。 |
||||||||||||||||||||||
1.3.3 | と |
とご報告申し上げるにつけても、胸がどきっとなさる。 |
と報告をした。源氏は胸のとどろくのを覚えた。 |
|||||||||||||||||||||||
1.3.4 | 「いかにして、いづれと まだ、 さりとて、 |
「どのようにして、どの君と確かめ得ようか。 父大臣などが聞き知って、大げさに婿扱いされるのも、どんなものか。 まだ、相手の様子をよく見定めないうちは、厄介なことだろう。 そうかと言って、確かめないでいるのも、それまた、誠に残念なことだろうから、どうしたらよいものか」と、ご思案に余って、ぼんやりと物思いに耽り横になっていらっしゃった。 |
どんな方法によって |
【いかにして】- 以下「いかにせまし」まで、源氏の心中。 【ことごとしうもてなさむも】- 『古典セレクション』は諸本に従って「ことごとしうもてなされんも」と「れ」を補入する。『集成』『新大系』(大島本も同文)は底本のまま。 【まだ、人のありさまよく見さだめぬほどは、わづらはしかるべし】- 「見さだめぬほどは」と「わづらはしかるべし」の間には間合があろう。『集成』は「それに、まだ相手の姫君の事情をよく見届けぬうちは、(六の君ならば、東宮妃に予定されていたりするから)事めんどうであろう」と注す。『完訳』は「まだ相手の人柄をよく見きわめぬうちは、それも煩わしいことだろう」と解す。 |
||||||||||||||||||||||
1.3.5 | 「姫君は、どんなに寂しがっているだろう。 何日も会っていないから、ふさぎこんでいるだろうか」と、いじらしくお思いやりなさる。 あの証拠の扇は、桜襲の色で、色の濃い片面に霞んでいる月を描いて、水に映している図柄は、よくあるものだが、人柄も奥ゆかしく使い馴らしている。 「草の原をば」と詠んだ姿ばかりが、お心にかかりになさるので、 |
姫君がどんなに寂しいことだろう、幾日も帰らないのであるからとかわいく二条の院の人を思いやってもいた。取り替えてきた扇は、桜色の薄様を三重に張ったもので、地の濃い所に |
【姫君、いかに】- 以下「屈してやあらむ」まで、源氏の心。「姫君」は紫の君をさす。 【桜襲ね】- 明融臨模本、大島本、陽明文庫本は「さくらかさね」とある。池田本は「のみへ」を補入。横山本、伝花山院長親筆本、肖柏本、三条西家本、書陵部本は「さくらのみへかさね」とある。河内本、別本の御物本も横山本等本と同文である。『集成』『古典セレクション』は「桜の三重がさね」と校訂する。『新大系』は底本のまま。 |
|||||||||||||||||||||||
1.3.6 | 「今までに味わったことのない気がする 有明の月の行方を途中で見失ってしまって」 |
世に知らぬここちこそすれ有明の 月の |
【世に知らぬ心地こそすれ有明の--月のゆくへを空にまがへて】- 源氏の独詠歌。「有明」と「空」は縁語。 |
|||||||||||||||||||||||
1.3.7 | と |
とお書きつけになって、取って置きなさった。 |
と扇に書いておいた。 |
|||||||||||||||||||||||
第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲 |
||||||||||||||||||||||||||
1.4.1 | 「 |
「大殿にも久しく御無沙汰してしまったなあ」とお思いになるが、若君も気がかりなので、慰めようとお思いになって、二条院へお出かけになった。 見れば見るほどとてもかわいらしく成長して、魅力的で利発な気立て、まことに格別である。 不足なところのなく、ご自分の思いのままに教えよう、とお思いになっていたのに、叶う感じにちがいない。 男手のお教えなので、多少男馴れしたところがあるかも知れない、と思う点が不安である。 |
翌朝源氏は、左大臣家へ久しく行かないことも思われながら、二条の院の少女が気がかりで、寄ってなだめておいてから行こうとして自邸のほうへ帰った。二、三日ぶりに見た最初の瞬間にも若紫の美しくなったことが感ぜられた。 |
【大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ】- 場面変わって二条院。紫の君の物語。朧月夜の物語と葵の上の物語の間に挿話的に語られる。 【男の御教へなれば、すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ、うしろめたけれ】- 語り手の感想を交えた表現。『一葉集』は「双紙詞也」と指摘。『集成』も「男の源氏が教育なさるのだから、少々男なれしたところがあるかもしれないと思われる点が、気がかりである。草子地」とある。 |
||||||||||||||||||||||
1.4.2 | この数日来のお話、お琴など教えて一日過ごしてお出かけになるのを、いつものと、残念にお思いになるが、今ではとてもよく躾けられて、むやみに後を追ったりしない。 |
この二、三日間に宮中であったことを語って聞かせたり、琴を教えたりなどしていて、日が暮れると源氏が出かけるのを、紫の女王は少女心に物足らず思っても、このごろは習慣づけられていて、無理に留めようなどとはしない。 |
||||||||||||||||||||||||
1.4.3 | つれづれとよろづ |
大殿では、例によって、直ぐにはお会いなさらない。 所在なくいろいろとお考え廻らされて、箏のお琴を手すさびに弾いて、 |
左大臣家の源氏の夫人は例によってすぐには出て来なかった。いつまでも座に一人でいてつれづれな源氏は、夫人との間柄に |
|||||||||||||||||||||||
1.4.4 | 「やはらかに寝る夜はなくて」 |
「やはらかに |
【やはらかに寝る夜はなくて】- 『催馬楽』「貫河」の「貫河(ぬきかは)の瀬々の やはら手枕 やはらかに 寝(ぬ)る夜はなくて 親離(さ)くる夫(つま) 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧(やはぎ)の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線がいの 細底(ほそしき)を買へ さし履きて 表裳(うはも)とり着て 宮路かよはむ」の句。 |
|||||||||||||||||||||||
1.4.5 | とうたひたまふ。 |
とお謡いになる。 大臣が渡っていらして、先日の御宴の趣深かったこと、お話し申し上げなさる。 |
と歌っていた。左大臣が来て、花の宴のおもしろかったことなどを源氏に話していた。 |
|||||||||||||||||||||||
1.4.6 | 「ここらの |
「この高齢で、明王の御世を、四代にわたって見て参りましたが、今度のように作文類が優れていて、舞、楽、楽器の音色が整っていて、寿命の延びる思いをしたことはありませんでした。 それぞれ専門の道の名人が多いこのころに、お詳しく精通していらして、お揃えあそばしたからです。 わたくしごとき老人も、 |
「私がこの年になるまで、四代の天子の宮廷を見てまいりましたが、今度ほどよい詩がたくさんできたり、音楽のほうの才人がそろっていたりしまして、寿命の延びる気がするようなおもしろさを味わわせていただいたことはありませんでした。ただ今は専門家に名人が多うございますからね、あなたなどは師匠の人選がよろしくてあのおできぶりだったのでしょう。老人までも舞って出たい気がいたしましたよ」 |
【ここらの齢にて】- 以下「心地なむしはべりし」まで、左大臣の詞。 【翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし】- 百十三歳の尾張連浜主が仁明天皇の御前で長寿楽を舞ったという故事(『続日本後紀』承和十二年正月条)。 |
||||||||||||||||||||||
1.4.7 | と |
と申し上げなさると、 |
||||||||||||||||||||||||
1.4.8 | 「ことにととのへ ただ よろづのことよりは、「 |
「特別に整えたわけではございません。 ただお役目として、優れた音楽の師たちを、あちこちから捜したまでのことです。 何はさておき、「柳花苑」は、本当に後代の例ともなるにちがいなく拝見しましたが、まして、「栄える春」に倣って舞い出されたら、どんなにか一世の名誉だったでしょうに」 |
「特に今度のために |
【ことにととのへ行ふこともはべらず】- 以下「世の面目にやはべらまし」まで、源氏の詞。 【そしうなる物の師】- 「そしう」は『小学館古語大辞典』「不詳。世に従わない、へつらうことを知らないの意か」とあり、さらに「語誌」に「「疎習」「疎秀」などを当てる説があり、字音語であることは確かだが、未詳。源氏物語の一例のみで、河内本では「おほやけごとにかたむ物の師」とある。「奸(かた)む」と類義とみるべきであり、「おほやけごとに」から続けば、官途になじまず、硬骨でへつらわない、意地っ張りなさまであるらしい。「初心」の転化か。宇津保物語の菊の宴の巻に「そしにの雅楽頭(うたのかみ)」があり、類似点がある。「おほやけごとに」を「尋ねて」に係るとみ、「そしう」は功者に上手なる意とする萩原広道の説もあるが、「おほやけごとに」を副詞的に取ることも従いがたい。図書寮本名義抄に「阻脩 ヘダタリナガシ」とあり「公事に長らく遠ざかっている」と解される」とある。 【さかゆく春」に】- 『集成』『完訳』は前出の尾張連浜主が帝の御前で長寿楽を舞いながら歌った「翁とてわびやはをらむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ」を踏まえたものと指摘する。『奥入』等の古注では「今こそあれ我も昔は男山栄ゆく時もありこしものを」(古今集、雑上、八八九、読人しらず)を指摘する。 |
||||||||||||||||||||||
1.4.9 | と |
とお答え申し上げになる。 |
こんな話をしていた。 |
|||||||||||||||||||||||
1.4.10 | 弁、中将なども来合わせて、高欄に背中を寄り掛らせて、めいめいが楽器の音を調えて合奏なさる、まことに素晴らしい。 |
弁や中将も出て来て高欄に背中を押しつけながらまた熱心に器楽の合奏を始めた。 |
||||||||||||||||||||||||
第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴 |
||||||||||||||||||||||||||
1.5.1 | あの有明の君は、夢のようにはかなかった逢瀬をお思い出しになって、とても物嘆かしくて物思いに沈んでいらっしゃる。 春宮には、卯月ころとご予定になっていたので、とてもたまらなく悩んでいらっしゃったが、男も、お捜しになるにも手がかりがないわけではないが、どちらとも分からず、特に好ましく思っておられないご一族に関係するのも、体裁の悪く思い悩んでいらっしゃるところに、弥生の二十日過ぎ、右の大殿の弓の結があり、上達部、親王方、大勢お集まりになって、引き続いて藤の宴をなさる。 |
【かの有明の君は】- 語り手は「有明の君」と呼称するが、享受者は「朧月夜の君」と呼称する。 【春宮には、卯月ばかりと思し定めたれば】- 朧月夜の君は四月に春宮入内が決定されていたので悩む。 【弥生の二十余日】- 源氏二十歳の三月の二十日過ぎ。晩春の景である。 【弓の結】- 競射。左右に分かれて競射する。 【藤の宴】- 横山本、伝花山院長親本は「ふちのはなのえん」、陽明文庫本は「ふちのはなえん」、三条西家本は「ふちの花のえん」とある。河内本と別本の御物本も「ふちのはなのえん」とある。 |
||||||||||||||||||||||||
1.5.2 | 花盛りは過ぎてしまったが、「他のが散りってしまった後に」と、教えられたのであろうか、遅れて咲く桜、二本がとても美しい。 新しくお造りになった殿を、姫宮たちの御裳着の儀式の日に、磨き飾り立ててある。 派手好みでいらっしゃるご家風のようで、すべて当世風に洒落た行き方になさている。 |
もう桜の盛りは過ぎているのであるが、「ほかの散りなんあとに咲かまし」と教えられてあったか二本だけよく咲いたのがあった。新築して外孫の内親王方の |
【ほかの散りなむ】- 『源氏釈』は「見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむ後ぞ咲かまし」(古今集、春上、六八、伊勢)を指摘。 【宮たちの御裳着の日】- 弘徽殿女御の内親王をさす。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.3 | 源氏の君にも、先日、宮中でお会いした折に、ご案内申し上げなさったが、おいでにならないので、残念で、折角の催しも見栄えがしない、とお思いになって、ご子息の四位少将をお迎えに差し上げなさる。 |
右大臣は源氏の君にも宮中で逢った日に来会を申し入れたのであるが、その日に美貌の源氏が姿を見せないのを残念に思って、 |
【口惜しう、ものの栄なし】- 右大臣の心中。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.4 | 「わたしの邸の藤の花が世間一般の色をしているのなら どうしてあなたをお待ち致しましょうか」 |
わが宿の花しなべての色ならば 何かはさらに君を待たまし |
【わが宿の花しなべての色ならば--何かはさらに君を待たまし】- 右大臣の贈歌。源氏招待の意。『集成』は「「花」は、暗に娘のことをいったもの」と指摘する。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.5 | 宮中においでの時で、お上に奏上なさる。 |
右大臣から源氏へ贈った歌である。源氏は御所にいた時で、 |
【内裏におはするほどにて】- 主語は源氏。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.6 | 「したり |
「得意顔だね」と、 |
「得意なのだね」帝はお笑いになって、 |
【したり顔なりや】- 帝の詞。 |
||||||||||||||||||||||
1.5.7 | 「わざわざお迎えがあるようだから、早くお行きになるのがよい。 女御子たちも成長なさっている所だから、赤の他人とは思っていまいよ」 |
「使いまでもよこしたのだから行ってやるがいい。孫の内親王たちのために将来兄として力になってもらいたいと願っている大臣の |
【わざとあめるを】- 以下「思ふまじきを」まで、帝の詞。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.8 | などのたまはす。 |
などと仰せになる。 御装束などお整えになって、たいそう日が暮れたころ、待ち兼ねられて、お着きになる。 |
など仰せられた。ことに美しく装って、ずっと日が暮れてから待たれて源氏は行った。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.9 | 桜襲の唐織りのお直衣、葡萄染の下襲、裾をとても長く引いて。 参会者は皆袍を着ているところに、しゃれた大君姿の優美な様子で、丁重に迎えられてお入りになるお姿は、なるほどまことに格別である。 花の美しさも圧倒されて、かえって興醒めである。 |
桜の色の |
【あざれたる大君姿のなまめきたるにて】- 源氏の姿。他の参会者はみな正装(下は指貫を着用した布袴の礼装)なのに、高貴な身分の源氏だけ許されて略装の優美な姿をしている。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.10 | 管弦の遊びなどもとても興趣深くなさって、夜が少し更けていくころに、源氏の君、たいそう酔って苦しいように見せかけなさって、人目につかぬよう座をお立ちになった。 |
音楽の遊びも済んでから、夜が少しふけた時分である。源氏は酒の酔いに悩むふうをしながらそっと席を立った。 |
||||||||||||||||||||||||
1.5.11 | 寝殿に、女一の宮、女三の宮とがいらっしゃる。 東の戸口にいらっしゃって、寄り掛かってお座りになった。 藤はこちらの隅にあったので、御格子を一面に上げわたして、女房たちが端に出て座っていた。 袖口などは、踏歌の時を思い出して、わざとらしく出しているのを、似つかわしくないと、まずは藤壷周辺を思い出さずにはいらっしゃれない。 |
中央の |
【女一宮、女三宮のおはします】- 桐壺帝の内親王たち。 【踏歌の折おぼえて】- 「末摘花」巻に出る。 【ふさはしからず】- 源氏の感想。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.12 | 「苦しいところに、とてもひどく勧められて、困っております。 恐縮ですが、この辺の物蔭にでも隠させてください」 |
「苦しいのにしいられた酒で私は困っています。もったいないことですがこちらの宮様にはかばっていただく縁故があると思いますから」 |
【なやましきに】- 以下「たまはめ」まで、源氏の詞。 【蔭にも隠させたまはめ】- 『河海抄』は「咲く花の下に隠るる人は多みありしにまさる藤の蔭かも」(伊勢物語)を指摘。 |
|||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||
1.5.13 | とて、 |
と言って、妻戸の御簾を引き被りなさると、 |
妻戸に添った御簾の下から上半身を少し源氏は中へ入れた。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.14 | 「あら、困りますわ。 身分の賎しい人なら、高貴な縁者を頼って来るとは聞いておりますが」 |
「困ります。あなた様のような尊貴な御身分の方は親類の縁故などをおっしゃるものではございませんでしょう」 |
【あな、わづらはし】- 以下「はべるなれ」まで、女房の詞。 【よからぬ人】- 身分の低い人の意。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.15 | と |
と言う様子を御覧になると、重々しくはないが、並の若い女房たちではなく、上品で風情ある様子がはっきりと分かる。 |
と言う女の様子には、重々しさはないが、ただの若い女房とは思われぬ品のよさと美しい感じのあるのを源氏は認めた。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.16 | そらだきもの、いと さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう |
空薫物、とても煙たく薫らせて、衣ずれの音、とても派手な感じにわざと振る舞って、心憎く奥ゆかしい雰囲気は欠けて、当世風な派手好みのお邸で、高貴な御方々が御見物なさるというので、こちらの戸口は座をお占めになっているのだろう。 そうしてはいけないことなのだが、やはり興味をお惹かれになって、「どの姫君であったのだろうか」と、胸をどきどきさせて、 |
【そらだきもの、いと煙たうくゆりて】- 空薫物は室内にほのかに漂うのをよしとする。 【占めたまへるなるべし】- 内親王方の座席が設営されているのであろうの意。「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)は語り手の判断推測を表す。 【さしもあるまじきことなれど】- 『集成』は「そこまでするのは、どうかと思われたが。「さ」は、以下述べる源氏の色好みの行動をさす」と注す。『完訳』は「そんな振舞はすべきでないが」と注す。語り手の感情移入の挿入句。 【いづれならむ】- 源氏の心。朧月夜の君はどの君であろう、の意。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.17 | 「扇を取られて、辛い目を見ました」 |
「扇を取られてからき目を見る」( |
【扇を取られて、からきめを見る】- 源氏の詞。『催馬楽』「石川」中の歌詞「帯を取られて辛き悔いする」の文句を「扇を取られて辛き目をみる」と言い換えたもの。『源氏釈』は「石川の 高麗人(こまうど)に 帯を取られて からき悔いする いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中はたいれるか かやるか あやるか 中はいれたるか」(催馬楽 石川)を指摘。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.18 | と、うちおほどけたる |
と、わざとのんびりとした声で言って、近寄ってお座りになった。 |
||||||||||||||||||||||||
1.5.19 | 「妙な、変わった高麗人ですね」 |
「変わった |
【あやしくも、さま変へける高麗人かな】- 女房の詞。「高麗人」は『催馬楽』「石川」中の登場人物、それと知って、「帯」でなくて「扇」とは「あやしくも」と答えるが、なぜ「扇」なのか、この女房は事情を知らないので、こう言う。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.20 | と答えるのは、事情を知らない人であろう。 返事はしないで、わずかに時々、溜息をついている様子のする方に寄り掛かって、几帳越しに、手を捉えて、 |
と言う一人は無関係な令嬢なのであろう。何も言わずに時々 |
【心知らぬにやあらむ】- 源氏と語り手の心が一体化した表現。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.21 | 「月の入るいるさの山の周辺でうろうろと迷っています かすかに見かけた月をまた見ることができようかと |
「あづさ弓いるさの山にまどふかな ほの見し月の影や見ゆると |
【梓弓いるさの山に惑ふかな--ほの見し月の影や見ゆると】- 源氏の贈歌。「梓弓」は「射る」の枕詞。「いる」は「射る」と「入る」の掛詞。今日の「弓の結」にちなみ「入る」「弓」を詠み込んだ。「いるさの山」は但馬国の歌枕。「ほの見し月」は女を喩える。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.22 | なぜでしょうか」 |
なぜでしょう」 |
||||||||||||||||||||||||
1.5.23 | と、当て推量におっしゃるのを、堪えきれないのであろう。 |
と当て推量に言うと、その人も感情をおさえかねたか、 |
【え忍ばぬなるべし】- 挿入句、語り手の推測。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.24 | 「本当に深くご執心でいらっしゃれば たとえ月が出ていなくても迷うことがありましょうか」 |
心いる 月なき空に迷はましやは |
【心いる方ならませば弓張の--月なき空に迷はましやは】- 朧月夜の返歌。贈歌の「いるさの山」の「いる」と「梓弓」の「弓」を引用する。「心入る」は「入る」と「射る」の掛詞。「弓張の」は「月」の枕詞。また「入る」は「月」の縁語でもある。気持ちが薄いから迷うなどということをいうのですと、切り返した返歌。 |
|||||||||||||||||||||||
1.5.25 | と言う声、まさにその人のである。 とても嬉しいのだが。 |
と返辞をした。 |
【いとうれしきものから】- 途中で言いさした形で、この巻の文章は終わる。余韻余情を残した表現。『集成』は「中途で、言いさした形。心にかかっていた女に再会できて、うれしいのだが、右大臣家の姫君ではあり、人目も多い場所で、どうにもならないという気持を表す」と注す。『完訳』は「藤原俊成は、この巻の幽艶な情緒に言及して、「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と述べた」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
著作権 |
|
|
|
|
関連ファイル | ||
---|---|---|
種類 | ファイル | 備考 |
XMLデータ | genji08.xml |
このページに示した情報を保持するXML形式のデータファイルです。
このファイルは再編集プログラムによって2024年11月11日に出力されました。 源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経 ライセンスはGFDL(GNU Free Documentation License)に従うフリードキュメントとします。 ただし、著作権を表示した部分では、その著作権者のライセンスにも従うものとします。 |
XSLT | genjiNN.html.xsl.xml Copyrights.xsl.xml |
このページを生成するためにXMLデータファイルと組み合わせて使用するXSLTファイルで、再編集プログラムを構成するコンポーネントの1つです。 再編集プログラムは GPL(GNU General Public License) に従うフリーソフトです。 源氏物語の世界 再編集プログラム Ver. 4.05: Copyright (c) 2003,2024 宮脇文経 |