設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第四十五帖 橋姫 薫君の宰相中将時代二十二歳秋から十月までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮 |
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第一段 八の宮の家系と家族 |
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1.1.1 | そのころ、 |
その頃、世間から忘れられていらっしゃった古宮がおいでになった。 母の里方なども、立派な家柄でいらっしゃって、特別の地位につくべき評判などがおありであったが、時勢が変わって、世間から冷たく扱われなさった騷ぎに、かえってその声望も衰え、ご後見の人びとなども何となく恨めしい思いをして、それぞれの理由で、政界から退き去り退き去りして、公私ともに頼る人がなくなり、孤立していらっしゃるようである。 |
そのころ世間から存在を無視されておいでになる古い親王がおいでになった。母方なども高い貴族で、 |
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1.1.2 | 北の方も、昔の大臣の姫君であったが、しみじみと心細く、両親がお考えになっていらっしゃっした事などを思い出しなさると、譬えようもない悲しいことが多いが、深いご親密な夫婦仲の又とないのだけを、憂世の慰めとして、お互いにこの上なく頼り合っていらっしゃった。 |
夫人も昔の大臣の娘であったが、心細い逆境に置かれて、結婚の初めに親たちの描いていた夢を思い出してみると、あまりな距離のある今日の境遇が悲しみになることもあるが、唯一の妻として愛されていることに慰められていて、互いに信頼を持つ相愛の御夫妻ではあった。 |
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1.1.3 | 幾年もたったのに、お子がお出来にならなくて気がかりだったので、所在ない寂しい慰めに、「何とかして、かわいらしい子が欲しいものだ」と、宮が時々お思いになりおっしゃっていたところ、珍しく、女君でとてもかわいらしい子がお生まれになった。 |
年月がたっても子をお持ちになることがなかったために、寂しい退屈をまぎらすような美しい子供がほしいと宮は時々お言いになるのであったが、思いがけぬころに一人の美しい |
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1.1.4 | これを |
この子をこの上なくかわいいと思って大切にお育て申していらっしゃったところに、また続いて妊娠なさって、「今度は男の子であって欲しい」などとお思いになったが、同じく女の子で、無事には出産なさったが、とてもひどく産後の肥立ちが悪くてお亡くなりになってしまった。 宮は、驚き途方に暮れなさる。 |
これを非常に愛してお育てになるうちに、また続いて夫人が妊娠した時に、今度は男であればよいとお望みになったにかかわらずまた姫君が生まれた。安産だったのであるが、産後に病をして夫人は死んだ。この悲しい事実の前に宮は |
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第二段 八の宮と娘たちの生活 |
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1.2.1 | 「あり いはけなき |
「年月を過すにつけても、まことに暮らしにくく、堪え難いことが多い世の中だが、見捨てることのできないいとしい人たちのご様子、人柄に、心を引き止められて、過ごして来たのだが、独り残って、ますます味気ない感じがするな。 幼い子供たちをも、独りで育てるには、身分格式のある身なので、まことに愚からしく、体裁の悪いことであろう」 |
世の中にいればいるほど冷遇されて、堪えがたいことは多くても、捨てがたい優しい妻が自分の心を |
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1.2.2 | と |
とご決心なさって、出家も遂げたくお思いになったが、見譲る人もなくて残して行くのを、ひどくおためらいになりながら、年月がたつと、それぞれ成長なさっていく様子、器量が、美しく素晴らしいので、朝夕のお慰めとして、いつしか年月をお過ごしになる。 |
この際に入道しようとこうも宮は |
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1.2.3 | 後からお生まれになった姫君を、お仕えする女房たちも、「まあ、悪い時にお生まれになって」などと、ぶつぶつ呟いては、身を入れてお世話申し上げなかったが、臨終の床で、何お分りにならない時ながら、この子をとてもお気の毒にと思って、 |
あとで生まれたほうの女王を侍女たちも、「この方のお産があって奥様がお |
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1.2.4 | 「ただ、この姫君をわたしの形見とお思いになって、かわいがってください」 |
「私はもう生きられませんから、この子だけを形見だとお思いになって愛してやってください」 |
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1.2.5 | とばかり、ただ |
とだけ、わずか一言、宮にご遺言申し上げなさったので、前世からの約束も辛い時だが、「そうなるはずの運命だったのだろうと、ご臨終と見えた時まで、とてもかわいそうにと思って、気がかりにおっしゃったことよ」と、お思い出しになりながら、この姫君を特に、とてもかわいがり申し上げなさる。 器量は本当にとてもかわいらしく、不吉なまで美しくいらっしゃった。 |
と一言だけ言い置いたことをお思いになって、夫人の命の亡ぶ際にこの世へ出た子に対しては、その宿命が恨めしくお思いになるはずであるが、仏の思召しでこうなったのであろう、命の終わりにまでこの子をかわいく思い、自分に頼んで行ったのであるからとことさらこの女王を愛しておいでになった。端麗な |
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1.2.6 | いたはしくやむごとなき |
姫君は、気立てはもの静かで優雅な方で、外見も態度も、気高く奥ゆかしい様子でいらっしゃる。 大切にしたい高貴な血筋は勝っていて、姉妹どちらも、それぞれに大切にお育て申し上げなさるが、思い通りに行かないことが多く、年月とともに、宮邸の内も何となく段々と寂しくばかりなって行く。 |
姉君は静かな |
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1.2.7 | さぶらひし |
仕えていた女房も、頼りにならない気がするので、辛抱することができず、次々と辞めて去って行き、若君の御乳母も、あのような騒動に、しっかりした人を、選ぶことがお出来になれなかったので、身分相応の浅はかさで、幼い君をお見捨て申し上げてしまったので、ただ宮がお育てなさる。 |
女房たちも心細がって |
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第三段 八の宮の仏道精進の生活 |
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1.3.1 | さすがに、 |
そうは言っても、広く優雅なお邸の、池、築山などの様子だけは昔と変わらないで、たいそうひどく荒れて行くのを、所在なく眺めていらっしゃる。 |
さすがにお邸は広くてみごとなものであったが、池や山の形にだけ以前の面影を残して荒廃する庭を、つれづれな御生活の宮はよくながめておいでになった。 |
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1.3.2 | 家司なども、しっかりとした人もいないままに、草が青々と茂って、軒の忍草が、わがもの顔に一面に青みわたっている。 四季折々の花や紅葉の、色や香を、同じ気持ちでご賞美なさったことで、慰められることも多かったが、ますます寂しく、頼みとする人もないままに、持仏のお飾りだけを、特別におさせになって、明け暮れお勤めなさる。 |
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1.3.3 | かかるほだしどもにかかづらふだに、 |
このような足手まといたちにかかずらっているのでさえ、心外で残念で、「自分ながらも思うに任せない運命であった」と思われるが、まして、「どうして、世間の人並みに今更再婚などを」とばかり、年月とともに、世の中をお離れになり、心だけはすっかり聖におなりになって、故君がお亡くなりになって以後は、普通の人のような気持ちなどは、冗談にもお思い出しならなかった。 |
子という |
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1.3.4 | 「などか、さしも。 なほ、 |
「どうして、そんなにまで。 死別の悲しみは、二つと世に例のないようにばかり、思われるようだが、時がたてば、そんなでばかりいられようか。 やはり、普通の人と同じようなお心づかいをなさって、とてもこのような見苦しく、頼りない宮邸の内も、自然と整って行くこともあるかも知れません」 |
「そんなにいつまでも夫人のことばかりを思っておいでにならないでもいいではないか。妻に死別した直後にはこれほど悲しいことはないと思うのが普通だろうが、時がたてばたったように心境の変化がなくてはならない。世間のだれもがするようにあとの夫人を選定されて、結婚をなすったら、宮家の心細い御経済も緩和されると思うが」 |
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1.3.5 | と、人は非難申し上げて、何やかやと、もっともらしく申し上げることも、縁故をたどって多かったが、お聞き入れにならなかった。 |
こんなお |
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1.3.6 | 御念誦の合間合間には、この姫君たちを相手にし、だんだん成長なさると、琴を習わせ、碁を打ち、偏つぎなどの、とりとめない遊びにつけても、二人の気立てを拝見なさると、姫君は、才気があり、落ち着いて重々しくお見えになる。 若君は、おっとりとかわいらしい様子をして、はにかんでいる様子に、とてもかわいらしく、それぞれでいらっしゃる。 |
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第四段 ある春の日の生活 |
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1.4.1 | いとをかしげに、 |
春のうららかな日の光に、池の水鳥たちが、互いに羽を交わしながら、めいめいに囀っている声などを、いつもは、何でもないことと御覧になっていたが、つがいの離れずにいるのを羨ましく眺めなさって、姫君たちに、お琴類をお教え申し上げなさる。 とてもかわいらしげで、小さいお年で、それぞれ掻き鳴らしなさる楽の音色は、しみじみとおもしろく聞こえるので、涙を浮かべなさって、 |
春のうららかな日のもとで池の水鳥が羽を並べて |
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1.4.2 | 「見捨てて去って行ったつがいでいた水鳥の雁は はかないこの世に子供を残して行ったのだろうか |
「打ち捨ててつがひ去りにし水鳥の かりのこの世に立ち |
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1.4.3 | 気苦労の絶えないことだ」 |
悲しい運命を負っているものだ」 |
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1.4.4 | と、 |
と、目を拭いなさる。 容貌がとても美しくいらっしゃる宮である。 長年のご勤行のために痩せ細りなさったが、それでも気品があって優美で、姫君たちをお世話なさるお気持ちから、直衣の柔らかくなったのをお召しになって、つくろわないご様子、とても恥ずかしくなるほど立派である。 |
とお言いになり、その涙をおぬぐいになった。御容貌のお美しい親王である。長い精進の御生活にやせきっておいでになるが、そのためにまたいっそう |
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1.4.5 | 姫君、お硯を静かに引き寄せて、手習いのように書き加えなさるのを、 |
大姫君が |
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1.4.6 | 「これにお書きなさい。 硯には書き付けるものでありません」 |
「これにお書きなさい。硯へ字を書くものでありませんよ」 |
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1.4.7 | とて、 |
とおっしゃって、紙を差し上げなさると、恥じらってお書きになる。 |
と、紙をお渡しになると、女王は恥ずかしそうに書く。 |
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1.4.8 | 「どうしてこのように大きくなったのだろうと思うにも 水鳥のような辛い運命が思い知られます」 |
いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも うき水鳥の契りをぞ知る |
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1.4.9 | よい歌ではないが、その状況は、とてもしみじみと心打たれるのであった。 筆跡は、将来性が見えるが、まだ上手にお書き綴りにならないお年である。 |
よい歌ではないがその時は身に |
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1.4.10 | 「 |
「若君もお書きなさい」 |
「若君もお書きなさい」 |
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1.4.11 | とあれば、 |
とおっしゃると、もう少し幼そうに、長くかかってお書きになった。 |
とお言いになると、これはもう少し幼い字で、長くかかって書いた。 |
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1.4.12 | 「泣きながらも羽を着せかけてくださるお父上がいらっしゃらなかったら わたしは大きくなることはできなかったでしょうに」 |
泣く泣くも羽うち われぞ巣 |
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1.4.13 | お召し物など皺になって、御前に他に女房もなく、とても寂しく所在なさそうなので、それぞれたいそうかわいらしくいらっしゃるのを、不憫でいたわしいと、どうして思わないことがあろうか。 お経を片手に持ちなさって、一方では読経しながら唱歌もなさる。 |
もう着ふるした衣服を着ていて、この場に女房たちの侍しているのもない、 |
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1.4.14 | 姫君に琵琶、若君に箏のお琴を、まだ幼いけれど、いつも合奏しながらお習いになっているので、聞きにくいこともなく、たいそう美しく聞こえる。 |
大姫君には |
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第五段 八の宮の半生と宇治へ移住 |
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1.5.1 | 父帝にも母女御にも、早く先立たれなさって、しっかりしたご後見人が、取り立てていらっしゃらなかったので、学問なども深くお習いになることができず、まして、世の中に生きていくお心構えは、どうしてご存知でいらっしゃったであろうか。 身分の高い人と申す中でも、あきれるくらい上品でおっとりした、女性のようでいらっしゃるので、古い世からのご宝物や、祖父大臣のご遺産や、何やかやと尽きないほどあったが、行方もなくあっけなく無くなってしまって、ご調度類などだけが、特別にきちんとして多くあった。 |
父帝にも母女御にも早くお死に別れになって、はかばかしい保護者をお持ちにならなんだために、宮は学問などを深くあそばす時がなかった。まして処世法などは知っておいでになるわけもない貴人と申してもまた驚くばかり上品で、おおような女のような弱い性質を備えておいでになって、父帝からお譲りになった御遺産とか、 |
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1.5.2 | つれづれなるままに、 |
参上してご機嫌伺いしたり、好意をお寄せ申し上げる人もいない。 所在ないのにまかせて、雅楽寮の楽師などのような、優れた人を召し寄せ召し寄せなさっては、とりとめない音楽の遊びに心を入れて、成人なさったので、その方面では、たいそう素晴らしく優れていらっしゃった。 |
伺候する者もなく、お力になって差し上げようとする人たちもない。御徒然なために雅楽寮の音楽専門家のうちのすぐれたのをお呼び寄せになり、芸事ばかりを熱心にお習いになって |
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1.5.3 | また、この |
源氏の大殿の御弟君でいらっしゃったが、冷泉院が春宮でいらっしゃった時に、朱雀院の大后が、あるまじき企みをご計画になって、この宮を、帝位をお継ぎになるように、ご威勢の盛んな時、ご支援申し上げなさった騒動で、つまらなく、あちら方とのお付き合いからは、遠ざけられておしまいになったので、ますますあちら方のご子孫の御世となってしまった世の中では、交際することもお出来になれない。 また、ここ数年、このような聖にすっかりなってしまって、今はこれまでと、万事をお諦めになっていた。 |
光源氏の弟宮の八の宮と呼ばれた方で、 |
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1.5.4 | こうしているうちに、お住まいになっていた宮邸が焼けてしまった。 不幸続きの人生の上に、あきれるほどがっかりして、お移り住みなさるような適当な所が、適当な所もなかったので、宇治という所に、風情のある山荘をお持ちになっていたのでお移りになる。 お捨てになった世の中だが、今は最後と住み離れることを悲しく思わずにはいらっしゃれない。 |
そのうちに八の宮のお |
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1.5.5 | かく |
網代の様子が近く、耳もとにうるさい川の辺りで、静かな思いに相応しくない点もあるが、どうすることもできない。 花や紅葉や、川の流れにつけても、心を慰めるよすがとして、いよいよ物思いに耽るより他のことがない。 こうして世間から隔絶して籠もってしまった野山の果てでも、「亡き北の方が生きていらっしゃったら」と、お思い申し上げなさらない時はなかった。 |
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1.5.6 | 「北の方も邸も煙となってしまったが どうしてわが身だけがこの世に生き残っているのだろう」 |
見し人も宿も煙となりにしを などてわが身の消え残りけん |
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1.5.7 | 生きている効もないほど、恋い焦がれていらっしゃるよ。 |
これではお生きがいもあるまいと思われるほど故人にこがれておいでになるのであった。 |
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第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ |
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第一段 八の宮、阿闍梨に師事 |
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2.1.1 | いとど、 あやしき |
ますます、山また山を隔てたお住まいに、訪問する人もいない。 賤しい下衆など、田舎びた山住みの者たちだけが、まれに親しくお仕え申し上げる。 峰の朝霧が晴れる時の間もなくて、明かし暮らしなさっているが、この宇治山に、聖めいた阿闍梨が住んでいた。 |
京にお住いになった時すら来訪がなかったのであるから、山の重なった中へはるばるお |
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2.1.2 | 学問がたいそうできて、世人の評判も低くはなかったが、めったに朝廷の法要にも出仕せず、籠もっていたところに、この宮が、このように近い所にお住みになって、寂しいご様子で、尊い仏事をあそばしながら、経文を読み習っていらっしゃるので、尊敬申し上げて、常に参上する。 |
仏道の学問の深くあることを世間からも認められていながら、宮廷の御用の時などにもなるべく出るのを避けて、宇治の自坊にばかりこもっているのであったが、八の宮が宇治の山荘へ移っておいでになって、孤独な生活をお始めになり、仏道を研究されようとして、宗教の書物を読んでおいでになるのを知って、ありがたいことに思い時々御訪問に来るのであった。 |
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2.1.3 | 長年学んでお知りになった事柄などで、深い意味をお説き申し上げて、ますますこの世が仮の世で、無意味なことをお教え申し上げるので、 |
今まで独学的に読んでおいでになった書物に書かれたことの、深い意味と理解のしかたをお授けするようなことも阿闍梨はできた。この世はただかりそめのものであること、味気ない所であることをさらにこの僧からお教えられになって、 |
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2.1.4 | 「心だけは蓮の上に乗って、きっと濁りのない池にも住むだろうことを、とてもこのように小さい姫君たちを見捨てる気がかりさだけに、一途に僧形になることもできないのだ」 |
「もう心だけは仏の |
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2.1.5 | など、 |
などと、隔意なくお話なさる。 |
などと、お思いになることも隔てなく阿闍梨へ宮はお語りになるのだった。 |
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第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る |
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2.2.1 | この阿闍梨は、冷泉院にも親しく伺候して、御経などお教え申し上げる僧なのであった。 京に出た折に参上して、いつものように、しかるべき教典などを御覧になって、ご下問あそばすことがある折に、 |
この阿闍梨は冷泉院へもお出入りしていて、院へ経などをお教え申し上げる人であった。ある時京へ出たついでに宇治の阿闍梨は院の御所へまいったが、院は例のような仏書をお出しになって質問などをあそばした。その日に阿闍梨が、 |
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2.2.2 | 「八の宮が、たいそうご聰明で、教典のご学問にも深く通じていらっしゃいますなあ。 そのようになるはずの方として、お生まれになったのでいらっしゃる方なのでしょうか。 お考えが深く悟り澄ましていらっしゃるほどは、本当の聖の心構えのようにお見えになります」と申し上げる。 |
「八の宮様は御 |
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2.2.3 | 「まだ姿は変えていらっしゃらないのか。 俗聖とか、ここの若い人達が名付けたというのは、殊勝なことだ」などと仰せになる。 |
「まだ出家はされていないのか。『 |
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2.2.4 | 宰相中将も、御前に伺候なさって、「自分こそは、世の中を実に面白くなく悟っていながら、その行いなどを、人目につくほどは勤めず、残念に過ごして来てしまった」と、人知れず反省しながら、「在俗のまま聖におなりになる心構えとはどのようなものか」と、耳を止めてお聞きになる。 |
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2.2.5 | 「出家の本願は、もともとお持ちでいらっしゃったが、つまらないことに心がにぶり、今となっては、お気の毒な姫君たちのお身の上を、お見捨てになることができないと、嘆いておられます」と奏す。 |
「出家のお志は十分にお持ちになるのでございますが、最初は奥様へのお思いやりで |
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2.2.6 | さすがに、 |
そうは言っても、音楽は賞美する阿闍梨なので、 |
優美なふうはないが、音楽だけは好きな阿闍梨が、 |
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2.2.7 | 「なるほど、また、この姫君たちが、琴を合奏なさって楽しんでいらっしゃるのが、川波と競って聞こえますのは、たいそう興趣あって、極楽もかくやと想像されますね」 |
「八の宮の姫君がたが合奏をなさいます琴や琵琶の音が私の寺へ、宇治川の波音といっしょに聞こえてまいりますのが、非常にけっこうで、極楽の遊びが思われます」 |
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2.2.8 | と、古風に誉めるので、院の帝はほほ笑みなさって、 |
こんな昔風なほめ方をするのに、院の |
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2.2.9 | 「さる うしろめたく、 |
「そのような聖の近くにお育ちになって、この世の方面のことは、暗かろうと想像されるが、興趣あることだね。 気がかりで見捨てることができず、苦にしていらっしゃるだろうことが、もし、少しでも後に自分が生き残っているようであったら、後見役をお譲りなさらないだろうか」 |
「そんな聖の家で育てられていては、そうした芸術的な趣味には欠けているかと想像もされるのに珍しいことだね。宮が気がかりにお思いになる人を、順序から言って私のほうがしばらくでも長くこの世におられるとすれば、私へ託してお置きにならないだろうか」 |
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2.2.10 | などと仰せになる。 この院の帝は、第十の皇子でいらっしゃるのであった。 朱雀院が、故六条院にお預け申し上げなさった入道宮のご先例をお思い出しになって、「あの姫君たちを欲しいものだ。 所在ない遊び相手として」などとお思いになるのであった。 |
とも仰せられた。院の帝は十の宮でおありになった。 |
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第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る |
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2.3.1 | 中将の君は、かえって、親王が悟り澄ましていらっしゃるお心づかいを、「お目にかかって、お伺いしたいものだ」と思う気持ちが深くなった。 そうして阿闍梨が山に帰ていくときにも、 |
年の若い薫中将はかえって姫君たちの話に好奇心などは動かされずに、八の宮の悟り澄ましておいでになる御心境ばかりが |
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2.3.2 | 「きっと参って、お教えて戴けるよう、まずは内々にでも、ご意向を伺ってください」 |
「必ず宇治へ伺わせていただいて、宮のお教えを受けようと私は思いますから、あなたからまず内々思召しを伺っておいてください」 |
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2.3.3 | など |
などとお頼みになる。 |
と薫は頼んだ。 |
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2.3.4 | 院の帝が、御使者を介して、「お気の毒な御生活を、人伝てに聞きまして」など申し上げなさって、 |
院の帝はお言葉で、「寂しいお |
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2.3.5 | 「世を厭う気持ちは宇治山に通じておりますが 幾重にも雲であなたが隔てていらっしゃるのでしょうか」 |
世をいとふ心は山に通へども 八重立つ雲を君や隔つる |
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2.3.6 | 阿闍梨は、この御使者を先に立てて、あちらの宮に参上した。 並々の身分で、訪問してよい人の使いでさえまれな山蔭なので、実に珍しく、お待ち喜びになって、場所に相応しい御馳走などを用意して、山里らしい持てなしをなさる。 お返事は、 |
という御歌もお託しになった。阿闍梨は八の宮をお喜ばせするこのお役の誇りを先立てて山荘へまいった。普通の人から立てられる使いもまれな |
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2.3.7 | 「世を捨てて悟り澄ましているのではありませんが 世を辛いものと思い宇治山に暮らしております」 |
跡たえて心すむとはなけれども 世を宇治山に宿をこそ借れ |
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2.3.8 | 仏道修業の方面については謙遜して申し上げなさっていたので、「やはり、この世に恨みが残っていたな」と、いたわしく御覧になる。 |
宗教のことは卑下してお言いにならず、寂しい人間としての御近況をお報じになったために、院は宮がまだ不平をこの世に持っておいでになるものとして御同情をあそばされた。 |
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2.3.9 | 阿闍梨は、中将の君が、道心深くいらっしゃることなどを、お話し申し上げて、 |
阿闍梨は薫中将が宗教的な人物であることなどをお話しして、 |
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2.3.10 | 「 |
「経文などの真意を会得したい希望が、幼い時から深く思いながら、やむをえず世にあるうちに、公私に忙しく日を過ごし、わざわざ部屋に閉じ籠もって経を読み習い、だいたいが大して役にも立たない身として、世の中に背き顔をしているのも、遠慮することではないが、自然と修業も怠って、俗事に紛れて過ごして来たが、たいそうご立派なご様子を承ってから、このように心にかけて、お頼み申し上げるのです、などと、熱心に申し上げなさいました」などとお話し申し上げる。 |
「仏道の学問を深くしたい望みを少年時代から持っているのでございますが、専念にそのほうを勉強いたしますことは、私ごとき頭脳のよろしくないものが、優越者か何かのようにこの世を見下すまちがった態度のように思われますのを、それ自体がまちがったことでしょうが、恐れておりまして、目だたせずしようといたしますために、怠ることにもなり、ほかのことに紛れるようになりいたしまして今日までまいったのですが、けっこうな御境地に達しておられますあなた様のことを承ったものですから、ぜひお教えを得たいと望まれてなりませんなどと丁寧なお言づてを受けてまいりました」などと語った。 |
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2.3.11 | 宮は、 |
宮は、 |
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2.3.12 | 「 |
「世の中を仮の世界と思い悟り、厭わしい心がつき始めたことも、自分自身に不幸がある時、大方の世も恨めしく思い知るきっかけがあって、道心も起こることのようですが、年若く、世の中も思い通りに行き、何事も満足しないことはないと思われる身分で、そのようにまた、来世までを、考えていらっしゃるのが立派です。 |
「人生をかりそめと悟り、いとわしく思う心の起り始めるのも、その人自身に不幸のあった時とか、社会から冷遇されたとか、そんな動機によることですが、年がまだ若くて、思うことが何によらずできる身の上で、不満足などこの世になさそうな人が、そんなにまた後世のことを念頭に置いて研究して行こうとされるのは珍しいことですね。 |
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2.3.13 | ここには、さべきにや、ただ |
わたしは、そうなるべき運命なのか、ただ厭い離れよと、格別に仏などのお勧めになるような状態で、自然と、静かな思いが適って行きましたが、余命少ない気がするのに、ろくに悟りもしないで、過ぎてしまいそうなのを、過去も未来も、全然悟るところがなく思われるが、かえって、恥入るような仏法の友の方で、いらっしゃいますね」 |
私などはどうした宿命だったのでしょうか、これでもこの世がいやにならぬか、これでも |
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2.3.14 | などおっしゃって、お互いにお手紙を交わし、自分自身でも参上なさる。 |
とお言いになって、その後双方から手紙の書きかわされることになり、薫中将が自身でお |
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第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ |
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2.4.1 | げに、 |
なるほど、聞いていたよりもいたわしく、お暮らしになっている様子をはじめとして、まことに仮の粗末な庵で、そう思うせいか、簡素に見えた。 同じ山里と言っても、それなりに興味惹かれそうな、のんびりとしたところもあるのだが、実に荒々しい水の音、波の響きに、物思いを忘れたり、夜などは、気を許して夢をさえ見る間もなさそうに、風がものすごく吹き払っていた。 |
阿闍梨から話に聞いて想像したよりも目に見ては寂しい八の宮の山荘であった。仮の |
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2.4.2 | 「仏道修業者めいた人のためには、このようなことも、気にならないことなのであろうが、女君たちは、どのような気持ちで過ごしていらっしゃるのだろう。 世間一般の女性らしく優しいところは、少ないのではなかろうか」と推量されるご様子である。 |
僧のごとく悟っておいでになる宮のためにはこんな家においでになることは、人生を捨てやすくなることであろうが姫君たちはどんな気持ちで暮らしておいでになるであろう、世間の女に見るような柔らかな感じなどは失っておいでになるであろうとこんな観察も薫はされるのであった。 |
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2.4.3 | 仏間との間に、襖障子だけを隔てていらっしゃるようである。 好色心ある人は、気のあるそぶりをして、姫君のお気持ちを見たく、やはりどのようなものかと、興味惹かれるご様子である。 |
仏間になっている所とは |
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2.4.4 | されど、「さる |
けれども、「そのような方面を思い離れた願いで、山深くお尋ね申した目的もなく、好色がましいいいかげんなことを口に出してふざけるのも、主旨と違うのではないか」などと反省して、宮のご様子のまことにいたわしいのを、丁重にお見舞い申し上げなさり、度々参上しては、思っていたように、在俗のまま山に籠もり修業する深い意義、経文などを、特に賢ぶることなく、まことよくお聞かせになる。 |
しかしそうした異性に心の動かされぬ人たるべく遠くに師とする方を尋ねて来ながら、普通の男らしく山荘の若い女性に誘惑を試みる言行があってはならないと薫は思い返して、宮のお気の毒な御生活を懇切に御補助することを心がけることにして、たびたび伺っては、かねて願ったように俗体で深く信仰の道にはいるその方法とか、あるいは経文の解釈とかを宮から伺おうとした。学問的ばかりでなく、柔らかに |
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2.4.5 | 聖めいた人、学問のできる法師などは、世の中に多くいるが、あまりに堅苦しく、よそよそしい徳の高い僧都、僧正の身分は、世間的に忙しくそっけなくて、物事の道理を問いただすにも、仰々しく思われなさる。 |
高僧と言われる人とか、学才のある僧とかは世間に多いがあまりに人間と離れ過ぎた感がして、きつい気のする有名な |
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2.4.6 | また、その |
また、これといったこともない仏の弟子で、戒律を守っているだけの尊さはあるが、雰囲気が賤しく言葉がなまって、不作法に馴れ馴れしいのは、とても不愉快で、昼は、公事に忙しくなどしながら、ひっそりとした宵のころに、側近くの枕許などに召し入れてお話しなさるにつけても、まことにやはりむさ苦しい感じばかりがするが、たいそう気品高く、いたいたしい感じで、おっしゃる言葉も、同じ仏のお教えも、分りやすい譬えをまぜて、たいそうこの上なく深いお悟りというわけではないが、身分の高い方は、物事の道理を悟りなさる方法が、特別でいらっしゃったので、だんだんとお親しみ申し上げなさる度毎に、いつもお目にかかっていたく思って、忙しくなどして日を過ごしている時は、恋しく思われなさる。 |
また人格は低くてただ僧になっているという点にだけ敬意も持てるような人で、下品な、言葉づかいも卑しいのが、 |
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2.4.7 | この |
この君が、このように尊敬申し上げなさるので、冷泉院からも、常にお手紙などがあって、長年、噂にもまったくお聞きなされず、ひどく寂しそうであったお住まいに、だんだん来訪の人影を見る時々がある。 何かの時に、お見舞い申し上げなさること、大したもので、この君も、まず適当なことにかこつけては、風流な面でも、経済的な面でも、好意をお寄せ申し上げなさること、三年ほどになった。 |
薫がこんなふうに八の宮を尊敬するがために |
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第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る |
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第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く |
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3.1.1 | 秋の末方に、四季毎に当ててなさるお念仏を、この川辺では、網代の波も、このころは一段と耳うるさく静かでないので、と言って、あの阿闍梨が住む寺の堂にお移りになって、七日程度勤行なさる。 姫君たちは、たいそう心細く、何もすることのない日が増えて物思いに耽っていらっしゃるころ、中将の君が、久しく参らなかったなと、お思い出し申されるままに、有明の月が、まだ夜深く差し出たころに出立して、たいそうこっそりと、お供に人などもなく、質素にしておいでになった。 |
秋の末であったが、四季に分けて宮があそばす念仏の催しも、この時節は |
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3.1.2 | かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ |
川のこちら側なので、舟なども煩わさず、御馬でいらっしゃったのであった。 山に入って行くにつれて、霧で塞がって、道も見えない生い茂った木の中を分け入って行かれると、とても荒々しく吹き競う風に、ほろほろと散り乱れる木の葉の露が散りかかるのも、たいそう冷たくて、自分から求めてひどく濡れておしまいになった。 このような外歩きなども、あまり御経験ないお気持ちには、心細く興味深く思われなさった。 |
河の北の岸に山荘はあったから船などは要しないのである。薫は馬で来たのだった。宇治へ近くなるにしたがい霧が濃く道をふさいで行く手も見えない林の中を分けて行くと、荒々しい風が立ち、ほろほろと散りかかる木の葉の露がつめたかった。ひどく薫は |
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3.1.3 | 「山颪の風に堪えない木の葉の露よりも 妙にもろく流れるわたしの涙よ」 |
山おろしに堪へぬ木の葉の露よりも あやなく |
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3.1.4 | 山賤が目を覚ますのも厄介だと思って、随身の声もおさせにならない。 柴の籬を分けて、どことなく流れる水の流れを踏みつける馬の足音も、やはり、人目につかないようにと気をつけていらっしゃったのに、隠すことのできない御匂いが、風に漂って、どなたの香かと目を覚ます家々があるのであった。 |
村の者を驚かせないために随身に人払いの声も立てさせないのである。左右が |
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3.1.5 | 「 よき 「 |
近くなるころに、何の琴とも聞き分けることができない楽器の音色が、たいそうもの寂しく聞こえる。 「いつもこのように遊んでいらっしゃると聞いたが、その機会がなくて、親王の御琴の音色の評判高いのも、聞くことができないでいた。 ちょうど良い機会だろう」と思いながらお入りになると、琵琶の音の響きであった。 「黄鐘調」に調律して、普通の掻き合わせだが、場所柄か、耳馴れない気がして、掻き返す撥の音も、何となく清らかで美しい。 箏の琴は、しみじみと優美な音がして、途切れ途切れに聞こえる。 |
宮の山荘にもう間もない所まで来ると、何の楽器の音とも聞き分けられぬほどの音楽の声がかすかにすごく聞こえてきた。山荘の |
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第二段 宿直人、薫を招き入れる |
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3.2.1 | 暫く聞いていたいので、隠れていらしたが、お気配をはっきりと聞きつけて、宿直人らしい男で、何か愚直そうなのが、出て来た。 |
しばらくこのまま聞いていたく薫は思うのであったが、音はたてずにいても、薫のにおいに驚いて |
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3.2.2 | 「いかじかの理由で籠もっていらっしゃいます。 お手紙を差し上げましょう」と申す。 |
こうこうで宮が寺へこもっておいでになるとその男は言って、「すぐお寺へおしらせ申し上げましょう」とも言うのだった。 |
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3.2.3 | 「なに、その必要はない。 そのように日数を限った御勤行のところを、お邪魔申し上げるのもいけない。 このように濡れながらわざわざ参って、むなしく帰る嘆きを、姫君の御方に申し上げて、お気の毒にとおっしゃっていただけたら、慰められるでしょう」 |
「その必要はない。日数をきめて行っておられる時に、おじゃまをするのはいけないからね。こんなにも途中で |
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3.2.4 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、醜い顔がにこっとして、 |
と薫が言うと、醜い顔に |
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3.2.5 | 「 |
「申し上げさせていただきましょう」と言って立つのを、 |
「さように申し上げましょう」と言って、あちらへ行こうとするのを、 |
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3.2.6 | 「ちょっと待て」と召し寄せて、「長年、人伝てにばかり聞いて、聞きたく思っていたお琴の音を、嬉しい時だよ。 暫くの間、少し隠れて聞くのに適当な物蔭はないか。 不適切にも出過ぎて参上したりする間に、皆が琴をお止めになっては、まことに残念であろう」 |
「ちょっと」と、もう一度薫はそばへ呼んで、 「長い間、人の話にだけ聞いていて、ぜひ伺わせていただきたいと願っていた姫君がたの御合奏が始まっているのだから、こんないい機会はない、しばらく |
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3.2.7 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 そのお振る舞い、容姿容貌が、そのようなつまらない男の考えでも、実に立派に恐れ多く見えたので、 |
と言う薫の美しい |
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3.2.8 | 「誰も聞かない時には、明け暮れこのようにお弾きになりますが、下人であっても、都の方面から参って、加わっている人がある時は、お弾かせなさりません。 だいたい、こうして女君たちがいらっしゃることをお隠しになり、世間の人にお知らせ申すまいと、お考えになりおっしゃっているのです」 |
「だれも聞く人のおいでにならない時にはいつもこんなふうにしてお二方で |
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3.2.9 | と |
と申し上げるので、ほほ笑みなさって、 |
丁寧な |
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3.2.10 | 「あぢきなき しか われは、 かくておはしますらむ |
「つまらないお隠しだてだ。 そのようにお隠しになるというが、誰も皆、類まれな例として、聞き出すに違いないだろうに」とおっしゃって、「やはり、案内せよ。 わたしは好色がましい心などは、持っていないのだ。 こうしていらっしゃるご様子が、不思議で、なるほど、並々には思えないのだ」 |
「それはむだなお骨折りと申すべきだ。そんなにお隠しになっても人は皆知っていて、りっぱな姫君の例にお引きするのだからね」と言ってから、「案内を頼む。私は好色漢では決してないから安心するがよい。そうしてお二人で音楽を楽しんでおいでになるところがただ拝見したくてならぬだけなのだよ」 |
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3.2.11 | とこまやかにのたまへば、 |
と懇切におっしゃると、 |
親しげに頼むと、 |
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3.2.12 | 「ああ、恐れ多い。 物をわきまえぬ奴と、後から言われることがありましょう」 |
「それはとてもたいへんなことでございます。あとになりまして私がどんなに悪く言われることかしれません」 |
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3.2.13 | とて、あなたの |
と言って、あちらのお庭先は、竹の透垣を立てめぐらして、すべて別の塀になっているのを、教えてご案内申し上げた。 お供の人は、西の廊に呼び止めて、この宿直人が相手をする。 |
と言いながらも、その座敷とこちらの庭の間に |
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第三段 薫、姉妹を垣間見る |
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3.3.1 | あなたに |
あちらに通じているらしい透垣の戸を、少し押し開けて御覧になると、月が美しい具合に霧がかかっているのを眺めて、簾を短く巻き上げて、女房たちが座っている。 簀子に、たいそう寒そうに、痩せてみすぼらしい着物の女童一人と、同じ姿をした大人などが座っていた。 内側にいる人一人、柱に少し隠れて、琵琶を前に置いて、撥をもてあそびながら座っていたところ、雲に隠れていた月が、急にぱあっと明るく差し出たので、 |
月が美しい程度に霧をきている空をながめるために、 |
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3.3.2 | 「扇でなくて、これでもっても、月は招き寄せられそうだわ」 |
「扇でなくて、これでも月は招いてもいいのですね」 |
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3.3.3 | と言って、外を覗いている顔、たいそうかわいらしくつやつやしているのであろう。 |
と言って空をのぞいた顔は、非常に |
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3.3.4 | 添い臥している姫君は、琴の上に身をもたれかけて、 |
横になっていたほうの人は、上半身を琴の上へ傾けて、 |
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3.3.5 | 「入り日を戻す撥というのはありますが、変わったことを思いつきなさるお方ですこと」 |
「入り日を呼ぶ撥はあっても、月をそれでお招きになろうなどとは、だれも思わないお考えですわね」 |
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3.3.6 | とて、うち |
と言って、ちょっとほほ笑んでいる様子、もう少し落ち着いて優雅な感じがした。 |
と言って笑った。この人のほうに |
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3.3.7 | 「そこまでできなくても、これも月に縁のないものではないわ」 |
「でも、これだって月には縁があるのですもの」 |
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3.3.8 | など、はかなきことを、うち |
などと、とりとめもないことを、気を許して言い合っていらっしゃる二人の様子、まったく見ないで想像していたのとは違って、とても可憐で親しみが持て感じがよい。 |
こんな |
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3.3.9 | 「昔物語などに語り伝えて、若い女房などが読むのを聞くにも、必ずこのようなことを言っていたが、そのようなことはないだろう」と、想像していたのに、「なるほど、人の心を打つような隠れたことがある世の中だったのだな」と、心が惹かれて行きそうである。 |
女房などの愛読している昔の小説には必ずこうした佳人のことが出てくるのを、いつも不自然な作り事であると反感を持ったものであるが、事実として意外な所に意外なすぐれた女性の存在することを知ったと思うのであった。若い人は動揺せずにあられようはずもない。 |
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3.3.10 | また、 おどろき |
霧が深いので、はっきりと見ることもできない。 再び、月が出て欲しいとお思いになっていた時に、奥の方から、「お客様です」と申し上げた人がいたのであろうか、簾を下ろして皆入ってしまった。 驚いたふうでもなく、ものやわらかに振る舞って、静かに隠れた方々の様子、衣擦れの音もせず、とても柔らかくなっておいたわしい感じで、ひどく上品で優雅なのを、しみじみとお思いなさる。 |
霧が深いために女王たちの顔を細かに見ることができないのを、もう一度また雲間を破って月が出てくれればいいと薫の願っているうちに、座敷の奥のほうから来客のあることを報じた者があったのか、 |
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3.3.11 | 静かに出て、京に、お車を引いて参るよう、人を走らせた。 先ほどの男に、 |
薫は |
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3.3.12 | 「具合悪い時に参ってしまいましたが、かえって嬉しく、思いが少し慰められました。 このように参った旨を申し上げよ。 ひどく露に濡れた愚痴も申し上げたい」 |
「宮様のお留守にあやにく伺ったのですが、あなたの好意で私は屈託を少し忘れることもできましたよ。私の伺ったことをお奥へ申し上げてください。 |
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3.3.13 | とおっしゃると、参上して申し上げる。 |
と薫が言うと、侍はすぐに奥へ行った。 |
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第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面 |
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3.4.1 | かく あやしく、 |
このように見られただろうかとはお考えにもならず、気を許して話していたことを、お聞きになったろうかと、実にたいそう恥ずかしい。 不思議と、香ばしく匂う風が吹いていたのを、思いかけない時なので、「気がつかなかった迂闊さよ」と、気も動転して、恥ずかしがっていらっしゃる。 |
薫が隙見をしたことなどは知らずに、 |
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3.4.2 | ご挨拶などを伝える人も、とても物馴れていない人のようなので、「時と場合によって、何事も臨機応変に」とお思いになって、まだ霧でよく見えない時なので、先ほどの御簾の前に歩み出て、お座りになる。 |
取り次ぎ役の侍の気のきかぬことがもどかしくなって、薫は無遠慮にあたるかもしれぬが、山荘住まいの現在の女王がたはとがめもされまいと思い、まだ霧の深い時間であったから、さっきのぞいたほうの座敷の縁へ歩いて行き、 |
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3.4.3 | 山里めいた若い女房たちは、お答えする言葉も分からず、お敷物を差し出す恰好も、たどたどしそうである。 |
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3.4.4 | 「この うちつけに かく |
「この御簾の前では、きまり悪うございますよ。 一時の軽い気持ちぐらいでは、こんなにも尋ねて参れないような難しい険しい山路と存じておりましたが、これは変わったお扱いで。 このように露に濡れ濡れ何度も参ったら、いくらなんでも、ご存知でいらっしゃろうと、頼もしく存じております」 |
「このお座敷の御簾の前にしか座が |
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3.4.5 | と、いとまめやかにのたまふ。 |
と、とてもまじめにおっしゃる。 |
まじめに薫はこう言った。 |
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3.4.6 | 若い女房たちが、すらすらと何か申し上げることもできず、正体もないほど恥ずかしがっているのも、見ていられないので、年配の女房で奥に寝ている者を起こし出している間、ひまどって、わざとらしいのも気の毒になって、 |
若い女房にはこの応対にあたりうる者もなく、皆きまり悪く上気している者ばかりであったから、 |
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3.4.7 | 「何事も存じませんわたくしどもで、知ったふうに、どうして、お答え申し上げられましょうか」 |
「何もわからぬ者ばかりがいるのですから、わかった顔をいたしましてお返辞を申し上げることなどはできないのでございます」 |
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3.4.8 | と、いとよしあり、あてなる |
と、たいそう優雅で、上品な声をして、引っ込みながらかすかにおっしゃる。 |
と、品のよい、消えるような声で言った。 |
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3.4.9 | 「かつ ありがたう、よろづを |
「実は分かっておいでなのに、辛さを知らないふりをするのも、世の習いと存じておりますが、ほかならぬあなたが、あまりにそらぞらしいおっしゃりようをなさるのは、残念に存じます。 めったになく、何事につけ悟り澄ましていらっしゃるご生活などに、ご一緒申されておいでのご心中は、万事涼しく推量されますから、やはり、このように秘めきれない気持ちの深さ浅さも、お分かりいただけることは、効がございましょう。 |
「人生の |
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3.4.10 | 世の常の好色がましいこととは、違ってお考えいただけませんか。 そのようなことは、ことさら勧める人がありましても、言う通りにはならない決心の強さです。 |
世間並みの一時的な感情で御交際を求める男と同じように私を御覧になるのではありませんか。私がどんな誘惑にも打ち勝って来ている男であることは、すでに今までにお耳へはいっていることかとも思われます。 |
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3.4.11 | おのづから つれづれとのみ |
自然とお聞き及びになることもございましょう。 所在なくばかり過ごしております世間話も、聞いていただくお相手として頼み申し上げ、またこのように、世間から離れて、物思いあそばしていられるお心の気紛らわしには、そちらからそうと、話しかけてくださるほどに親しくさせていただけましたら、どんなにか嬉しいことでございましょう」 |
独身生活を続けております私が求める友情をお許しくだすって、私もまた寂しいあなた様のお心を慰める友になりえて親密なおつきあいができましたらどんなにうれしいかと思われます」 |
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3.4.12 | など、 |
などと、たくさんおっしゃると、遠慮されて、答えにくくて、起こした老人が出て来たので、お任せになる。 |
などと薫の多く言うのに対して、大姫君は返辞がしにくくなって困っているところへ、起こしにやった老女が来たために、応答をそれに譲った。 |
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第五段 老女房の弁が応対 |
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3.5.1 | たとえようもなく出しゃばって、 |
その女は出すぎた物言いをするのであった。 |
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3.5.2 | 「まあ、恐れ多いこと。 失礼なご座所でございますこと。 御簾の中にどうぞ。 若い女房たちは、物の道理を知らないようでございます」 |
「まあもったいない、失礼なお席でございますこと。なぜ |
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3.5.3 | など、したたかに |
などと、ずけずけと言う声が年寄じみているのも、きまり悪く姫君たちはお思いになる。 |
などと老人らしい声で言っていることにも女王たちはきまり悪さを覚えていた。 |
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3.5.4 | 「いともあやしく、 |
「まことに妙に、世の中に暮らしていらっしゃる方のお仲間入りもなさらないご様子で、当然訪問してよい方々でさえ、人並み扱いにご訪問申される方々も、お見かけ申さないようにばかりなって行くようですので、もったいないお志のほどを、人数にも入らないわたしでも、意外なとまでお思い申し上げさせていただいておりますが、若い姫君たちもご存知でありながら、お申し上げなさりにくいのでございましょうか」 |
「この世においでになる人の数にもおあたりになりませんようなお暮らしをあそばして、当然おいでにならなければならない方でさえも段々遠々しくばかりなっておしまいになりますのに、あなた様の御好意のかたじけなさは、私ども |
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3.5.5 | と、まことに遠慮なく馴れ馴れしいのも、小憎らしい一方で、感じはたいそうひとかどの人物らしく、教養のある声なので、 |
控えめにせず物なれたふうに言い続けることに反感は起こりながらも、この人の |
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3.5.6 | 「まこと取りつく島もない気がしていたが、嬉しいおっしゃりようです。 何事も、なるほど、ご存知であった頼もしさは、この上ないことです」 |
「取りつきようもない皆さんばかりでしたのに、あなたが出て来てくださいまして、私の誠心誠意をくんでいてくださる方を得ましたことは、私の大きい幸福です」 |
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3.5.7 | とおっしゃって、寄り掛かって座っていらっしゃるのを、几帳の側から見ると、曙の、だんだん物の色が見えてくる中で、なるほど、質素にしていらっしゃると見える狩衣姿が、たいそう露に濡れて湿っているのが、「何と、この世以外の匂いか」と、不思議なまで薫り満ちていた。 |
こう御簾に身を寄せて言っている薫を、 |
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第六段 老女房の弁の昔語り |
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3.6.1 | この |
この老人は泣き出した。 |
この老女はどうしたのか泣きだした。 |
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3.6.2 | 「さし |
「出過ぎた者とのお咎めもあるやと、存じて控えておりますが、しみじみとした昔のお話の、どのような機会にお話申し上げ、その一部分を、ちらっとお耳に入れたいと、長年念誦の折にも、祈り続けてまいった効があってでしょうか、嬉しい機会でございますが、まだのうちから涙が込み上げて来て、申し上げることができませんわ」 |
「あまり出すぎたことをしてお気持ちを悪くしましてはと存じまして、私は自分をおさえておりましたが、悲しい昔の話をどうかして機会を作りまして、少しでもお話しさせていただき、あなた様の御承知あそばさなかったことを、お知らせもしたいということを私は長い間仏様の |
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3.6.3 | と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの |
と、震えている様子、ほんとうにひどく悲しいと思っていた。 |
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3.6.4 | だいたい、年老いた人は、涙もろいものとは見聞きなさっていたが、とてもこんなにまで思っているのも、不思議にお思いになって、 |
老人はだれもよく泣くものであると知っている |
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3.6.5 | 「ここに、このように参ることは、度重なったが、このように物のあわれをご存知の方がいなくて、露っぽい道中で、一人だけ濡れました。 嬉しい機会のようですので、すっかりおっしゃってください」とおっしゃると、 |
「この御山荘へ伺うことになりましてからずいぶん年月はたちますが、こちらのほうにも一人もおなじみがなくて寂しくばかり思われていたのです。昔のことを知っておいでになるというあなたにお |
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3.6.6 | 「このような機会は、ございますまい。 また、ございましても、明日をも知らない寿命を、当てにできません。 それでは、ただ、このような老人が、世の中におったとだけ、ご存知いただきたい。 |
「ほんとうにこんなよいおりはございません。またあるといたしましても、私は老人でございますから、それまでにどうなるかもしれたものではありませんので、ただこうした老女がいると申すことを覚えておいていただくためにお話しいたします。 |
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3.6.7 | そのかみ、 |
三条の宮におりました小侍従、亡くなってしまったと、ちらっと聞きました。 その昔、親しく存じておりました同じ年配の者は、多く亡くなりました晩年に、遠い田舎から縁故を頼って上京して来て、この五、六年のほど、ここにこのようにしてお仕えております。 |
三条の宮にお仕えしておりました小侍従が |
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3.6.8 | ご存知ではないでしょう、最近、藤大納言と申すお方の御兄君で、右衛門督でお亡くなりになった方は、何かの機会にか、あのお方の事として、お伝え聞きなさっていることはございましょう。 |
ご存じではございますまい、ただいま |
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3.6.9 | お亡くなりになって、まだいかほども経っていないような気ばかりがします。 その時の悲しさも、まだ袖が乾く時の間もなく存じられますが、このように大きくおなりあそばしたお年のほども、夢のような思われます。 |
私どもにとりましては、お亡れになりましたのがまだ |
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3.6.10 | かの |
あの故権大納言の御乳母でございました人は、弁の母でございました。 朝夕に身近にお仕えいたしましたところ、物の数にも入らない身ですが、誰にも知らせず、お心にあまったことを、時々ちらっとお漏らしになりましたが、いよいよお最期とおなりになったご病気の末頃に、呼び寄せて、わずかにご遺言なさったことがございましたが、ぜひお耳に入れなければならない子細が、一つございますけれども、これだけ申し上げましたので、さらに続きをとお思いになるお考えがございましたら、改めてごゆっくり、すっかりお話し申し上げましょう。 若い女房たちも、みっともなく、出過ぎた者と、非難するのも、もっともなことですから」 |
私はつまらない女でございましたが、人に知らせてならぬことで、しかもお心でお思いになりますことを私には時々お話ししてくだすったのでございました。御病気がお悪くて、もう頼みのない時になりまして、私をお呼びになって、少し御遺言をあそばしたことがあるのでございます。それはあなた様に御関係のあるお話なのでございましたから、これだけお話を申し上げましたあとを、まだお聞きになりたく思召すのでございましたら、また別な時間をお作りくださいまし。若い女房たちは私が出てまいって、あまりに話し込んでおりますことで、出すぎた |
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3.6.11 | とて、さすがにうち |
と言って、さすがに最後まで言わずに終わった。 |
さすがにこれだけにとめて老女はあとを言おうとしなかった。 |
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3.6.12 | あやしく、 |
不思議な、夢語り、巫女などのような者が、問わず語りをしているように、珍しい話と思わずにはいらっしゃれないが、しみじみと本当のことが知りたいと思い続けて来た方面のことを申し上げたので、ひどく先が知りたいが、なるほど、人目も多いし、不意に昔話にかかわって、夜を明かしてしまうのも、無作法であるから、 |
怪しい夢のような話である。 |
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3.6.13 | 「そこはかと さらば、かならずこの |
「はっきりと思い当たるふしは、ないものの、昔のことと聞きますのも、心をうちます。 それでは、きっとこの続きをお聞かせください。 霧が晴れていったら、見苦しいやつした姿を、無礼のお咎めを受けるに違いない姿なので、思っておりますように行かず、残念でなりません」 |
「私には何の心あたりもないことですが、昔のお話であると思うと身にしみます。ですからぜひ今の話のあとをそのうちお聞かせください。霧が晴れて現わになっては恥ずかしい姿になっていて、私の心よりも劣った形を姫君がたのお目にかけることになるのは苦痛ですから失礼します」 |
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3.6.14 | とおっしゃって、お立ちになると、あのいらっしゃる寺の鐘の音が、かすかに聞こえて、霧がたいそう深く立ち込めていた。 |
と薫が言って、立った時に宮の行っておいでになる寺の鐘がかすかに聞こえてきた。霧はますます濃くなっていて、宮のおいでになる場所と山荘の隔たりが物哀れに感ぜられた。 |
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第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京 |
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3.7.1 | 峰の幾重にも重なった雲の、思いやるにも隔てが多く、心痛むが、やはり、この姫君たちのご心中もおいたわしく、「物思いのありたけを尽くしていられよう。 あのように、とても引っ込みがちでいらっしゃるのも、もっともなことだ」などと思われる。 |
薫は姫君たちの心持ちを思いやって同情の念がしきりに動くのだった。二人とも引っ込みがちに内気なふうになるのも道理であるなどと思われた。 |
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3.7.2 | 「夜も明けて行きますが帰る家路も見えません 尋ねて来た槙の尾山は霧が立ち込めていますので |
「朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし |
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3.7.3 | 心細いことですね」 |
心細いことです」 |
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3.7.4 | と、引き返して立ち去りがたくしていらっしゃる様子を、都の人で見慣れた人でさえ、やはり、たいそう格別にお思い申し上げているのに、まして、どんなにか珍しく思わないことあろうか。 お返事を申し上げにくそうに思っているので、いつものように、たいそう慎ましそうにして、 |
と言って、またもとの席に帰って、川霧をながめている薫は、優雅な姿として都人の中にも定評のある人なのであるから、まして山荘の人たちの目はどれほど驚かされたかもしれない。だれも皆恥じて取り次ぐことのできないふうであるのを見て、大姫君がまたつつましいふうで自身で言った。 |
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3.7.5 | 「雲のかかっている山路を秋霧が ますます隔てているこの頃です」 |
雲のゐる峰のかけぢを秋霧の いとど隔つる |
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3.7.6 | すこしうち |
少し嘆いていらっしゃる様子、並々ならず胸を打つ。 |
そのあとで |
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3.7.7 | 何ほども風情の見えない辺りだが、なるほど、おいたわしいことが多くある中にも、明るくなって行くと、いくら何でも直接顔を合わせる感じがして、 |
若い男の感情を刺激するような美しいものなどは何もない山荘ではあるが、こうした心苦しさから辞し去ることが |
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3.7.8 | 「なまじお言葉を聞いたために、途中までしか聞けなかった思いの多くの残りは、もう少しお親しみになってから、恨み言も申し上げさせていただきましょう。 一方では、このように世間の人並みに、お扱いなさることは、意外にもお分かりにならない方だと、恨めしくて」 |
「お近づきしてかえってまた飽き足りません感を与えられましたが、もう少しおなじみになりましてからお恨みも申し上げることにしましょう。お恨みというのは形式どおりなお取り扱いを受けましたことで、誠意がわかっていただけなかったことです」 |
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3.7.9 | とて、 |
と言って、宿直人が準備した西面にいらっしゃって、眺めなさる。 |
こんな言葉を残したままあちらへ行った。そして |
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3.7.10 | 「網代では、人が騒いでいるようだ。 けれど、氷魚も寄って来ないのだろうか。 景気の悪そうな様子だ」 |
「 |
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3.7.11 | と、 |
と、お供の人々は見知っていて言う。 |
などと、たびたび供に来てこの辺のことがよくわかるようになっている薫の供の者は庭先で言っている。 |
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3.7.12 | 「粗末な幾隻もの舟に、柴を刈り積んで、それぞれ何ということもない生活に、上り下りしている様子に、はかない水の上に浮かんでいるが、誰も皆考えてみれば同じことである、無常の世だ。 自分は水に浮かぶような様でなく、玉の台に落ち着いている身だと、思える世だろうか」と思い続けられずにはいられない。 |
貧弱な船に刈った |
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3.7.13 | 硯を召して、あちらに申し上げなさる。 |
薫は |
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3.7.14 | 「姫君たちのお寂しい心をお察しして 浅瀬を漕ぐ舟の棹の、 |
橋姫の心を |
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3.7.15 | 物思いに沈んでいらっしゃることでしょう」 |
寂しいながめばかりをしておいでになるのでしょう。 |
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3.7.16 | と言って、宿直人にお持たせになった。 たいそう寒そうに、鳥肌の立つ顔して持って上る。 お返事は、紙の香などが、いいかげんな物では恥ずかしいが、早いのだけをこのような場合は取柄としよう、と思って、 |
そしてこれを侍に持たせてやった。その男は寒そうに |
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3.7.17 | 「棹さして何度も行き来する宇治川の渡し守は朝夕の雫に 濡れてすっかり袖を朽ちさせていることでしょう |
さしかへる宇治の 雫や袖をくたしはつらん |
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3.7.18 | 身まで浮かんで」 |
身も浮かぶほどの涙でございます。 |
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3.7.19 | と、実に美しくお書きになっていらっしゃた。 「申し分なく感じの良い方だ」と、心が惹かれたが、 |
大姫君は美しい字でこう書いた。こんなことも皆ととのった人であると薫は思い、心が多く残るのであったが、 |
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3.7.20 | 「 |
「お車を牽いて参りました」 |
「お車が京からまいりました」 |
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3.7.21 | と、 |
と、供人が騒がしく申し上げるので、宿直人だけを召し寄せて、 |
と言って、供の者が促し立てるので、薫は侍を呼んで、 |
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3.7.22 | 「お帰りあそばしたころに、きっと参りましょう」 |
「宮様がお帰りになりますころにまた必ずまいります」 |
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3.7.23 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 濡れたお召し物は、皆この人に脱ぎ与えなさって、取りにやったお直衣にお召し替えになった。 |
などと言っていた。濡れた衣服は皆この侍に与えてしまった。そして取り寄せた |
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第八段 薫、宇治へ手紙を書く |
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3.8.1 | 老人の話が、気にかかって思い出される。 思っていたよりは、この上なく優れていて、立派だったご様子が、面影にちらついて、「やはり、思い離れがたいこの世だ」と、心弱く思い知らされる。 |
薫は帰ってからも宇治の老女のした話が気にかかった。また姫君たちの想像した以上におおような、柔らかい感じのする美しい人であった面影が目に残って、捨て去ることは容易でない人生であることが心弱く思われもした。 |
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3.8.2 | お手紙を差し上げなさる。 懸想文めいてではなく、白い色紙で厚ぼったい紙に、筆は念入りに選んで、墨つきも見事にお書きになる。 |
薫は消息を宇治の姫君へ書くことにした。それは恋の手紙というふうでもなかった。白い厚い色紙に、筆を |
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3.8.3 | 「うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、 |
「ぶしつけなようではないかと、むやみに差し控えまして、話し残したことが多いのも辛いことです。 一部お話し申し上げておいたように、今からは、御簾の前も、気安くお許しくださいますように。 お山籠もりが済みます日を伺っておきまして、霧に閉ざされた迷いも、晴れることでしょう」 |
突然に伺った者が多く語り過ぎると |
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3.8.4 | などぞ、いとすくよかに |
などと、たいそう生真面目にお書きになっている。 左近将監である人を、お使いとして、 |
などとまじめに言ってあるのを、使いに出す |
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3.8.5 | 「あの老人を訪ねて、手紙を渡すように」 |
あの老女に |
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3.8.6 | とおっしゃる。 宿直人が寒そうにしてうろうろしていたのなど、気の毒にお思いやりになって、大きな桧破子のようなものを、たくさん届けさせなさる。 |
と薫は命じた。宿直の侍が寒そうな姿であちこちと用に歩きまわったのを哀れに思い出して、大きな重詰めの料理などを幾つも作らせて贈るのであった。 |
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3.8.7 | 翌日、あちらのお寺にも差し上げなさる。 「山籠もりの僧たち、近頃の嵐には、とても心細く辛いだろうに、そうして籠もっていらっしゃる間のお布施を、なさらねばならないだろう」とご想像になって、絹、綿など多かった。 |
そのまた宮のおこもりになった寺のほうへも薫は贈り物を差し上げた。山ごもりの僧たちも寒さに向かう時節であるから心細かろうと思いやって、宮からその人々へ布施としてお出しになるようにと絹とか、綿とかも多く贈った。 |
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3.8.8 | ご勤行が終わって、下山なさる朝だったので、修行者たちに、綿、絹、袈裟、法衣など、総じて一領ずつ、いるすべての大徳たちにお与えになる。 |
お |
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3.8.9 | 宿直人は、お脱ぎ捨てになった、優艷で立派な狩のお召物の、何ともいえない白い綾織物の、柔らかでいいようもなく匂っているのを、そのまま身に着けて、身は変えることのできないものなので、似つかわしくない袖の香を、会う人ごとに怪しまれたり、褒められたりするのが、かえって身の置きどころがないのであった。 |
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3.8.10 | 思いのままに、身を気軽に振る舞うこともきず、とても気持ち悪いまでに、人が驚く匂いを、無くしたいものだと思うが、大層な方の御移り香なので、洗い捨てることもできないのが、困ったものであるよ。 |
着物のために不行儀もできず、人の驚異とする高いにおいをなくしたいと思ったが、すすぐことのできないのに苦しんでいるのも |
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第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る |
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3.9.1 | 君は、姫君のお返事が、とてもよく整っていておおようなのを、風情があると御覧になる。 父宮にも、「このようにお手紙がありました」などと、女房たちが申し上げ、御覧に入れると、 |
薫は姫君の返事の感じよく若々しく書かれたのを見てうれしく思った。宇治では寺からお帰りになった宮へ、女房たちが薫から手紙の送られたことを申し上げてそれをお目にかけた。 |
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3.9.2 | 「いや、なに。 懸想めいてお扱いなさるのも、かえって嫌なことであろう。 普通の若い人に似ないご性格のようだから、亡くなった後もなどと、一言ほのめかしておいたので、そのような気持ちで、心にかけているのだろう」 |
「これは求婚者扱いに冷淡になどする性質の相手ではないよ。そんなふうを見せてはかえってこちらの恥になるよ。普通の若者とは違ったすぐれた人格者だから、自分がいなくなったらと、こんなことをただ一言でも言っておけば遺族のために必ず尽くしてくれる心だと私は見ている」 |
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3.9.3 | などのたまうけり。 |
などとおっしゃるのであった。 ご自身も、さまざまなお見舞い品が、山寺にあふれたことなどをおっしゃっているころに、参ろうとお思いになって、「三の宮が、このように奥まった所に住む女が、会えば見まさりするのは、おもしろいことだろうと、せいぜい想像するだけでおっしゃっているのも、羨ましがらせて、お気持ちを揉ませ申そう」とお考えになって、のんびりした夕暮に参上なさった。 |
などと宮はお言いになった。宮から山寺の客に過ぎた見舞いの品々の贈られた好意を感謝するというお手紙をいただいたので、また宇治へ御訪問をしようと思った薫は、 |
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3.9.4 | いつもものように、いろいろなお話をおとり交わしなさる折に、宇治の宮のことを話し出して、見た早朝の様子などを、詳しく申し上げなさると、宮は、切に興味深くお思いになった。 |
例のとおりにいろいろな話をしたあとで、薫は宇治の宮のことを語り出した。霧の夜明けに |
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3.9.5 | やはり予想通りであったと、お顔色を見て、ますますお心が動くように話し続けなさる。 |
理想的な姫君だったと、薫はおおげさに技巧を用いて宇治の女王の美を語り続けるのであった。 |
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3.9.6 | 「ところで、その来たお返事は、どうしてお見せ下さらなかったのですか。 わたしだったなら」とお恨みになる。 |
「その女王のお返事を、なぜ私に見せてくれなかったのですか。私だったら親友には見せるがね」と宮はお恨みになった。 |
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3.9.7 | 「さかし。 いとさまざま かのわたりは、かくいとも かやすきほどこそ、 うち |
「そうです。 実にいろいろと御覧になるような一部分さえ、お見せ下さらない。 あのあたりは、このようにとても陰気くさい男が、独占していてよい人とも思えませんので、きっと御覧に入れたい、と存じますが、どうしてお訪ねなさることができましょう。 気軽な身分の者こそ、浮気がしたければ、いくらでも相手のいる世の中でございます。 人目につかない所では多いようですね。 |
「そうですね。あなたはたくさんのお手もとへまいる手紙の片端すらお見せになりません。あちらの女王がたのことは私のような欠陥のある人間などの対象にしておくべきではありませんから、ぜひあなたのお目にかけたい方々だと思っているのですが、どんなふうにすれば御接近ができるでしょう。身分のない者は恋愛がしたければ自由に恋愛もできるのですから、皆それ相当におもしろい恋愛生活はしているようですがね。 |
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3.9.8 | さるかたに この |
それ相応に魅力のある女で、物思いして、こっそり住んでいる家々が、山里めいた隠れ処などに、自然といるようでございます。 この申し上げるあたりは、たいそう世間離れした聖ふうで、ごつごつしたようであろうと、長い間、軽蔑しておりまして、耳をさえ、止めませんでした。 |
男の興味を |
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3.9.9 | ほのかな月光の下で見た通りの器量であったら、十分なものでしょうよ。 感じや態度は、それはまた、あの程度なのを、理想的な女とは、思うべきでしょう」 |
ほのかな月の光で見た目が誤っておりませんでしたら、確かに欠点のない美人です。様子といい、身のとりなしといい、それだけの人は美の極致としてよいことになるかと思います」 |
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3.9.10 | など |
などと申し上げなさる。 |
と薫は言うのである。 |
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3.9.11 | しまいには、本気になってとても憎らしく、「並大抵の女に心を移しそうにない人が、このように深く思っているのを、いい加減なことではないだろう」と、興味をお持ちになることは、この上なく高まった。 |
しまいには宮は真心から、普通の人などに心の |
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3.9.12 | 「さらに、またまた、よく様子を探って下さい」 |
「今後もよくさぐって来て私に知らせてください」 |
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3.9.13 | と、相手を勧めなさって、制約あるご身分の高さを、疎ましいまでに、いらだたしく思っていらっしゃるので、おもしろくなって、 |
宮はこうお言いになって、御自身の自由の欠けた尊貴さをいとわしくお思いになるふうまでもお見せになるのを、薫はおかしく思った。 |
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3.9.14 | 「いや、つまらないことでございます。 暫くの間も、世の中に執着心を持つまい思っておりますこの身で、ほんの遊びの色恋沙汰も気が引けますが、我ながら抑えかねる気持ちが起こったら、大いに思惑違いのことも、起こりましょう」 |
「しかし、そうした危険なことはしないほうがいいですね。この世へ執着を作るべきでないという信念を持っております私が、そうした中へはいって行って、自分ながら抑制できませんようなことになっては、すべての理想がこわれてしまうでしょうから」 |
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3.9.15 | と |
と申し上げなさると、 |
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3.9.16 | 「いや、まあ、大げさな。 例によって、物々しい修行者みたいな言葉を、最後まで見てみたいものだ」 |
「たいそうだね、例のとおりの坊様くさいことを言っている君のその態度がいつまで続くか見たいものだ」 |
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3.9.17 | と言ってお笑いになる。 心の中では、あの老人がちらっと言った話などが、ますます心を騒がせて、何となく物思いがちなのに、心をとめかすことも、美しいと聞く人のことも、どれほども心に止まらないのだった。 |
宮はお笑いになった。薫の心は宇治の宮で老女がほのめかした話からまた古い疑問が |
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第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る |
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第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く |
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4.1.1 | 十月になって、五、六日の間に、宇治へ参られる。 |
十月になって五、六日ごろに |
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4.1.2 | 「網代を、この頃は御覧なさい」と、申し上げる人びとがいるが、 |
「季節ですから |
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4.1.3 | 「どうして、その蜉蝣とはかなさを争うような身で、網代の側に行こうか」 |
「そんなことはいやだ。こちらも |
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4.1.4 | と、そぎ |
と、お省きなさって、例によって、たいそうひっそりと出立なさる。 気軽に網代車で、かとりの直衣指貫を仕立てさせて、ことさらお召しになっていた。 |
としりぞけて、多数の人はつれずに身軽に網代車に乗り、作らせてあった平絹の |
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4.1.5 | 宮は、お待ち喜びになって、場所に相応しい饗応など、興趣深くなさる。 日が暮れたので、大殿油を近くに寄せて、前々から読みかけていらした経文類の深い意味などを、阿闍梨も下山してもらい、釈義などを言わせなさる。 |
宮は非常にお喜びになり、この土地特有な料理などを作らせておもてなしになった。日が暮れてからは |
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4.1.6 | 少しもうとうととなさらずに、川風がたいそう荒々しいうえに、木の葉が散り交う音、水の響きなど、しみじみとした情感なども通り越して、何となく恐ろしく心細い場所の様子である。 |
主客ともに |
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4.1.7 | 明け方近くになったろうと思う時に、先日の夜明けの様子が思い出されて、琴の音がしみじみと身にしみるという話のきっかけを作り出して、 |
もう明け方に近いと思われる時刻になって、薫は前の月の霧の夜明けが思い出されるから、話を音楽に移して言った。 |
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4.1.8 | 「前回の、霧に迷わされた夜明けに、たいそう珍しい楽の音を、ちょっと拝聴した残りが、かえっていっそう聞きたく、物足りなく思っております」などと申し上げなさる。 |
「先日霧の濃く降っておりました明け方に、珍しい楽音を、ただ一声と申すほど伺いまして、それきりおやめになって聞かせていただけませんでしたことが残念に思われてなりません」 |
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4.1.9 | 「美しい色や香も捨ててしまった後は、昔聞いたこともみな忘れてしまいました」 |
「色も香も思わない人に私がなってからは音楽のことなどにもうとくなるばかりで皆忘れていますよ」 |
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4.1.10 | とのたまへど、 |
とおっしゃるが、人を召して、琴を取り寄せて、 |
宮はこうお言いになりながらも、侍に命じて琴をお取り寄せになった。 |
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4.1.11 | 「まことに似合わなくなってしまった。 先導してくれる音に付けて、思い出されようかしら」 |
「こんなことをするのが不似合いになりましたよ。導いてくださるものがあると、それにひかれて忘れたものも思い出すでしょうから」 |
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4.1.12 | とて、 |
と言って、琵琶を召して、客人にお勧めなさる。 手に取って調子を合わせなさる。 |
と言って、琵琶をも薫のためにお出させになった。薫はちょっと手に取って、調べてみたが、 |
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4.1.13 | 「まったく、かすかに聞きましたものと同じ楽器とは思われません。 お琴の響きからかと、存じられました」 |
「ほのかに承った時のこれが楽器とは思われません。特別な琵琶であるように思いましたのは、やはり弾き手がお違いになるからでございました」 |
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4.1.14 | とて、 |
と言って、気を許してお弾きにならない。 |
と言って、熱心に弾こうとはしなかった。 |
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4.1.15 | 「何と、まあ、口の悪い。 そのようにお耳にとまるほどの弾き方などは、どこからここまで伝わって来ましょう。 ありえない事です」 |
「とんでもない誤解ですよ。あなたの耳にとまるような芸がどこからここへ伝わってくるものですか、誤解ですよ」 |
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4.1.16 | と言って、琴を掻き鳴らしなさる、実にしみじみとぞっとする程である。 一方では、峰の松風が引き立てるのであろう。 たいそうおぼつかなく不確かなようにお弾きになって、趣きがある。 曲目を一つだけでお止めになった。 |
宮はこうお言いになりながら琴をお弾きになるのであったが、それは身にしむ音で、すごい感じがした。庭の松風の伴奏がしからしめるのかもしれない。忘れたというふうにあそばしながら一つの曲の一節だけを弾いて宮はおやめになった。 |
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第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引 |
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4.2.1 | 「このわたりに、おぼえなくて、 |
「このあたりに、思いがけなく、時々かすかに弾く箏の琴の音は、会得しているのか、と聞くこともございますが、気をつけて聴くことなどもなく、久しくなってしまったな。 気の向くままに、それぞれ掻き鳴らすらしいのは、川波だけが合奏するのでしょう。 もちろん、きちんとした拍子なども、身についてない、と存じます」と言って、「お弾きなさい」 |
「私の家では時々鳴ることのある十三絃はちょっとおもしろい手筋のように思われることもありますが、私が熱心に見てやらなくなってもう長くなりますからね。現在家の者の弾いているものは皆前の川の波音を標準にして |
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4.2.2 | と、あなたに たびたびそそのかしたまへど、とかく |
と、あちらに向かって申し上げなさるが、「思いもかけなかった独り琴を、お聞きになった方さえあるのを、とても未熟だろう」と言って引き籠もっては、すっかりお聞きにならない。 何度もお勧め申し上げなさるが、何かと言い逃れなさって、終わってしまったようなので、とても残念に思われる。 |
と姫君の居間のほうへ言っておやりになったが、「何も知らずに弾いていたのを、聞かれただけでも恥ずかしいのに、公然とまずいものをお聞かせできるものでない」女王は二人とも弾くのを |
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4.2.3 | この機会にも、このように妙に、世間離れしたように思われて暮らしている様子が、不本意なことだと、恥ずかしくお思いになっていた。 |
宮は片親でお育てになった姫君たちが素直にお言葉どおりのことをしないのを恥ずかしく思召すふうであった。 |
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4.2.4 | 「誰にも何とかして知らせまいと、育てて来たが、今日明日とも知れない寿命の残り少なさに、何といっても、将来長い二人が、落ちぶれて流浪すること、これだけが、なるほど、この世を離れる際の妨げです」 |
「女の子供のいることをなるべく人に知らせたくないと思ってね、私はだれも頼まずに自分の手だけで教育もしてきたのですが、もういつどうなるかもしれぬ命になってみると、さすがにまだ若い者は将来どんなふうにおちぶれてしまうことかと、その気がかりだけがこの世を辞して行く際の道の |
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4.2.5 | と、お話しなさるので、おいたわしく拝見なさる。 |
とお言いになるのに、薫は心苦しいことであると同情された。 |
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4.2.6 | 「わざとの しばしもながらへはべらむ |
「特別のお後見、はっきりした形ではございませんでも、他人行儀でなくお思いくださっていただきたく存じます。 少しでも長く生きております間は、一言でも、このようにお引き受け申し上げた旨に、背きますまいと存じます」 |
「表だちました責任者になりませんでも、私の力でお尽くしのできますことだけは私がいたしますから、御信用くだすっていいと存じております。しばらくでもあなた様よりあとに残って生きているといたしますれば、こうしたお言葉をいただきました以上、決してたがえることはいたしません」 |
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4.2.7 | などと申し上げなさると、「とても嬉しいこと」と、お思いになりおっしゃる。 |
薫がこう申し上げると、「非常にうれしいことです」と宮はお言いになった。 |
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第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く |
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4.3.1 | そうして、払暁の、宮がご勤行をなさる時に、あの老女を召し出して、お会いになった。 |
明け方のお勤めを仏前で宮のあそばされる間に、薫は先夜の老女に面会を求めた。 |
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4.3.2 | 姫君のご後見として伺候させなさっている、弁の君と言った人である。 年も六十に少し届かない年齢だが、優雅で教養ある感じがして、話など申し上げる。 |
これは姫君方のお世話役を宮がおさせておいでになる女で、弁の君という名であった。年は六十に少し足らぬほどであるが、優雅なふうのある女で、品よく昔の話をしだした。 |
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4.3.3 | 故大納言の君が、いつもずっと物思いに沈み、病気になって、お亡くなりになった様子を、お話し申し上げて泣く様子はこの上ない。 |
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4.3.4 | 「げに、よその |
「なるほど、他人の身の上話として聞くのでさえ、しみじみとした昔話を、それ以上に、長年気がかりで、知りたく、どのようなことの始まりだったのかと、仏にも、このことをはっきりとお知らせ下さいと、祈って来た効があってか、このように夢のようなしみじみとした昔話を、思いがけない機会に聞き付けたのだろう」とお思いになると、涙を止めることができなかった。 |
他人であっても同情の念の禁じられないことであろうと思われる昔話を、まして長年月の間、真実のことが知りたくて、自分が生まれてくるに至った初めを、仏を念じる時にも、まずこの真実を明らかに知らせたまえと祈った効験でか、こうして夢のように、偶然のめぐり合わせで肉身のことが聞かれたと思っている薫には涙がとめどもなく流れるのであった。 |
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4.3.5 | 「それにしても、 このように、その当時の事情を知っている人が生き残っていらっしゃったよ。驚きもし恥ずかしくも思われる 話について、やはり、このように伝え知っている人が |
「それにしてもその昔の秘密を知っている人が残っておいでになって、驚くべく恥ずかしい話を私に聞かせてくださるのですが、ほかにもまだこのことを知っている人があるでしょうか。今日まで私はその秘密の片端すらも聞くことがありませんでしたが」と薫は言った。 |
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4.3.6 | 「小侍従と弁を除いて、他に知る人はございませんでしょう。 一言でも、また他人には話しておりません。 このように頼りなく、一人前でもない身分でございますが、昼も夜もあの方のお側に、お付き申し上げておりましたので、自然と事の経緯をも拝見致しましたので、お胸に納めかねていらっしゃった時々、ただ二人の間で、たまのお手紙のやりとりがございました。 恐れ多いことですので、詳しくは存じ上げません。 |
「小侍従と私のほかは決して知っている者はございません。また一言でも私から他人に話したこともございません。こんなつまらぬ女でございますが、夜昼おそばにお付きしていたものですから、殿様の御様子に |
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4.3.7 | ご臨終におなりになって、わずかにご遺言がございましたが、このような身には、処置に窮しまして、気がかりに存じ続けながら、どのようにしてお伝え申し上げたらよいかと、おぼつかない念誦の折にも、祈っておりましたが、仏はこの世にいらっしゃったのだ、と存じられました。 |
殿様の御容体が危篤になりましてから、私へほんの少しの御遺言があったのでございますが、私 |
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4.3.8 | かく さらに、これは、この |
御覧入れたい物がございます。 もう必要がない、いっそ、焼き捨ててしまいましょうか。 このように朝夕の露のようにいつ消えてしまうかも分からない身の上で、放っておきましたら、他人の目にも触れようかと、とても気がかりに存じておりましたが、この邸辺りにも、時々、お立ち寄りになるのを、お待ち申し上げるようになりましてからは、少し頼もしく、このような機会もあろうかと、祈っておりました効が出て参りました。 まったく、これは、この世だけの事ではございません」 |
お目にかける物もあるのでございます。お渡しいたすことができません以上はもう焼いてしまおうかとも存じました。危うい命の老人が持っていまして、 |
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4.3.9 | と、 |
と、泣く泣く、こまごまと、お生まれになった時の事も、よく思い出しながら申し上げる。 |
弁は泣く泣く薫の生まれた時のこともよく覚えていて話して聞かせた。 |
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第四段 薫、父柏木の最期を聞く |
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4.4.1 | 「 |
「お亡くなりになりました騷ぎで、母でございました者は、そのまま病気になって、まもなく亡くなってしまいましたので、ますますがっかり致し、喪服を重ね重ね着て、悲しい思いを致しておりましたところ、長年、大して身分の良くない男で思いを懸けておりました人が、わたしをだまして、西海の果てまで連れて行きましたので、京のことまでが分からなくなってしまって、その人もあちらで死んでしまいました後、十年余りたって、まるで別世界に来た心地で、上京致しましたが、こちらの宮は、父方の関係で、子供の時からお出入りした縁故がございましたので、今はこのように世間づきあいできる身分でもございませんが、冷泉院の女御様のお邸などは、昔、よくお噂をうかがっていた所で、参上すべく思いましたが、体裁悪く思われまして、参ることができず、深山奥深くの老木のようになってしまったのです。 |
「大納言様がお |
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4.4.2 | 小侍従は、いつか亡くなったのでございましょう。 その昔の、若い盛りに見えました人は、数少なくなってしまった晩年に、たくさんの人に先立たれた運命を、悲しく存じられながら、それでもやはり生き永らえております」 |
小侍従はいつごろ亡くなったのでございましょう。若盛りの人として記憶にございます人があらかた故人になっております世の中に、寂しい思いをいたしながら、さすがにまだ死なれずに私はおりました」 |
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4.4.3 | など |
などと申し上げているうちに、いつものように、夜がすっかり明けた。 |
弁が長話をしている間に、この前のように夜が明けはなれてしまった。 |
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4.4.4 | 「よし、さらば、この また、 かかる |
「もうよい、それでは、この昔語りは尽きないようだ。 また、他人が聞いていない安心な所で聞こう。 侍従と言った人は、かすかに覚えているのは、五、六歳の時であったろうか、急に胸を病んで亡くなったと聞いている。 このような対面がなくては、罪障の重い身で終わるところであった」などとおっしゃる。 |
「この昔話はいくら聞いても聞きたりないほど聞いていたく思うことですが、だれも聞かない所でまたよく話し合いましょう。侍従といった人は、ほのかな記憶によると、私の五、六歳の時ににわかに胸を苦しがりだして死んだと聞いたようですよ。あなたに逢うことができなかったら、私は肉親を肉親とも知らない罪の深い人間で一生を終わることでした」などと薫は言った。 |
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第五段 薫、形見の手紙を得る |
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4.5.1 | ささやかにおし |
小さく固く巻き合わせた反故類で、黴臭いのを袋に縫い込んであるのを、取り出して差し上げる。 |
小さく巻き合わせた手紙の |
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4.5.2 | 「 『われ、なほ |
「あなた様のお手でご処分なさいませ。 『わたしは、もう生きていられそうもなくなった』と仰せになって、このお手紙を取り集めて、お下げ渡しになったので、小侍従に、再びお会いしました機会に、確かに差し上げてもらおう、と存じておりましたのに、そのまま別れてしまいましたのも、私事ながら、いつまでも悲しく存じられます」 |
「あなた様のお手で御処分くださいませ。もう自分は生きられなくなったと大納言様は仰せになりまして、このお手紙を集めて私へくださいましたから、私は小侍従に逢いました節に、そちら様へ届きますように、確かに手渡しをいたそうと思っておりましたのに、そのまま小侍従に逢われないでしまいましたことも、私情だけでなく、大納言のお心の通らなかったことになりますことで私は悲しんでおりました」 |
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4.5.3 | と申し上げる。 さりげないふうに、これはお隠しになった。 |
弁はこう言うのであった。薫はなにげなくその包を |
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4.5.4 | 「このような老人は、問わず語りにも、不思議な話の例として言い出すのだろう」とつらくお思いになるが、「繰り返し繰り返し、他言をしない旨を誓ったのを、信じてよいか」と、再び心が乱れなさる。 |
こうした老人は問わず語りに、不思議な事件として自分の出生の初めを人にもらすことはなかったであろうかと、薫は苦しい気持ちも覚えるのであったが、かえすがえす秘密を厳守したことを言っているのであるから、それが真実であるかもしれぬと慰められないでもなかった。 |
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4.5.5 | お粥や、強飯などをお召し上がりになる。 「昨日は、休日であったが、今日は、内裏の御物忌も明けたろう。 冷泉院の女一の宮が、御病気でいらっしゃるお見舞いに、必ず伺わなければならないので、あれこれ暇がございませんが、改めてこの時期を過ごして、山の紅葉が散らない前に参る」旨を、申し上げなさる。 |
山荘の朝の食事に |
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4.5.6 | 「このように、しばしばお立ち寄り下さるお蔭で、山の隠居所も、少し明るくなった心地がします」 |
「こんなふうにたびたびお訪ねくださる光栄を得て、 |
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4.5.7 | など、よろこび |
などと、お礼を申し上げなさる。 |
と宮からの御 |
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第六段 薫、父柏木の遺文を読む |
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4.6.1 | お帰りになって、さっそくこの袋を御覧になると、唐の浮線綾を縫って、「上」という文字を表に書いてあった。 細い組紐で、口の方を結んである所に、あのお名前の封が付いていた。 開けるのも恐ろしく思われなさる。 |
薫は自邸に帰って、弁から得た袋をまず取り出してみるのであった。 |
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4.6.2 | 色とりどりの紙で、たまに通わしたお手紙の返事が、五、六通ある。 それには、あの方のご筆跡で、病が重く臨終になったので、再び短いお便りを差し上げることも難しくなってしまったが、会いたいと思う気持ちが増して、お姿もお変わりになったというのが、それぞれに悲しいことを、陸奥国紙五、六枚に、ぽつりぽつりと、奇妙な鳥の足跡のように書いて、 |
いろいろな紙に書かれて、たまさか来た女三の宮のお手紙が五、六通あった。そのほかには |
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4.6.3 | 「目の前にこの世をお背きになるあなたよりも お目にかかれずに死んで行くわたしの魂のほうが悲しいのです」 |
目の前にこの世をそむく君よりも よそに別るる |
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4.6.4 | また、 |
また、端のほうに、 |
という歌もある。また奥に、 |
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4.6.5 | 「めでたく聞いております子供の事も、気がかりに存じられることはありませんが、 |
珍しく承った芽ばえの二葉を、私 |
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4.6.6 | 生きていられたら、 それをわが子だと見ましょうが誰も知らな |
命あらばそれとも見まし人知れず 岩根にとめし松の |
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4.6.7 | 書きさしたように、たいそう乱れた書き方で、「小侍従の君に」と表には書き付けてあった。 |
よく書き終えることもできなかったような乱れた文字でなった手紙であって、上には侍従の君へと書いてあった。 |
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4.6.8 | 紙魚という虫の棲み処になって、古くさく黴臭いけれど、筆跡は消えず、まるで今書いたものとも違わない言葉が、詳細で具体的に書いてあるのを御覧になると、「なるほど、人目に触れでもしたら大変だった」と、不安で、おいたわしい事どもなのである。 |
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4.6.9 | 「このような事が、この世に二つとあるだろうか」と、胸一つにますます煩悶が広がって、内裏に参ろうとお思いになっていたが、お出かけになることができない。 母宮の御前に参上なさると、まったく無心に、若々しいご様子で、読経していらっしゃったが、恥ずかしがって、身をお隠しになった。 「どうして、秘密を知ってしまったと、お気づかせ申そう」などと、胸の中に秘めて、あれこれと考え込んでいらっしゃった。 |
こんな苦しい思いを経験するものは自分以外にないであろうと思うと薫の心は限りもなく |
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