設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第二十四帖 胡蝶 光る源氏の太政大臣時代三十六歳の春三月から四月の物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経 |
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第一段 三月二十日頃の春の町の船楽 |
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1.1.1 | 三月の二十日過ぎのころ、春の御殿のお庭先の景色は、例年より殊に盛りを極めて照り映える花の色、鳥の声は、他の町の方々では、まだ盛りを過ぎないのかしらと、珍しく見えもし聞こえもする。 築山の木立、中島の辺り、色を増した苔の風情など、若い女房たちがわずかしか見られないのをもどかしく思っているようなので、唐風に仕立てた舟をお造らせになっていたのを、急いで装備させなさって、初めて池に下ろさせなさる日は、雅楽寮の人をお召しになって、舟楽をなさる。 親王方、上達部など、大勢参上なさっていた。 |
三月の |
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1.1.2 | かの「 |
中宮は、このころ里邸に下がっていらっしゃる。 あの「春を待つお庭は」とお挑み申されたお返事もこのころがよい時期かとお思いになり、大臣の君も、ぜひともこの花の季節を、御覧に入れたいとお思いになりおっしゃるが、よい機会がなくて気軽にお越しになり、花を御鑑賞なさることもできないので、若い女房たちで、きっと喜びそうな人々を舟にお乗せになって、南の池が、こちら側に通じるようにお造らせになっているので、小さい築山を隔ての関に見せているが、その築山の崎から漕いで回って来て、東の釣殿に、こちら方の若い女房たちを集めさせなさる。 |
このごろ中宮は御所から帰っておいでになった。去年の秋「心から春待つ園」の |
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1.1.3 | 龍頭鷁首を、唐風の装飾に仰々しく飾って、楫取りの棹をさす童は、皆角髪を結って、唐土風にして、その大きな池の中に漕ぎ出たので、ほんとうに見知らない外国に来たような気分がして、素晴らしくおもしろいと、見馴れていない女房などは思う。 |
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1.1.4 | こなたかなた ほかには まして |
中島の入江の岩蔭に漕ぎ寄せて眺めると、ちょっとした立石の様子も、まるで絵に描いたようである。 あちらこちら霞がたちこめている梢々、錦を張りめぐらしたようで、御前の方は遥々と遠くに望まれて、色濃くなった柳が、枝を垂れている、花も何ともいえない素晴らしい匂いを漂わせている。 他では盛りを過ぎた桜も、今を盛りに咲き誇り、渡廊を回るの藤の花の色も、紫濃く咲き初めているのであった。 それ以上に池の水に姿を写している山吹、岸から咲きこぼれてまっ盛りである。 水鳥たちが、番で離れずに遊びながら、細い枝をくわえて飛びちがっている、鴛鴦が波の綾に紋様を交えているのなど、何かの図案に写し取りたいくらいで、ほんとうに斧の柄も朽ちてしまいそうに面白く思いながら、一日中暮らす。 |
中島の入り江になった所へ船を差し寄せて |
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1.1.5 | 「風が吹くと波の花までが色を映して見えますが これが有名な山吹の崎でしょうか」 |
風吹けば こや名に立てる山吹の |
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1.1.6 | 「春の御殿の池は井手の川瀬まで通じているのでしょうか 岸の山吹が水底にまで咲いて見えますこと」 |
春の池や井手の 岸の山吹底も |
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1.1.7 | 「蓬莱山まで訪ねて行く必要もありません この舟の中で不老の名を残しましょう」 |
老いせぬ名をばここに残さん |
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1.1.8 | 「春の日のうららかな中を漕いで行く舟は 棹のしずくも花となって散ります」 |
春の日のうららにさして行く船は |
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1.1.9 | などというような、とりとめもない和歌を、思い思いに詠み交わしながら、行く先も帰り路も忘れてしまいそうに、若い女房たちが心を奪われるのも、もっともな池の表面の美しさである。 |
こんな歌などを各自が |
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第二段 船楽、夜もすがら催される |
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1.2.1 | ここのしつらひ、いとこと |
日が暮れるころ、「おうじょう」という楽が、たいそう面白く聞こえる中を、残念ながら、釣殿に漕ぎ寄せられて降りた。 ここの飾り、たいそう簡略な造りで、優美であって、御方々の若い女房たちが、自分こそは負けまいと心を尽くした装束、器量、花を混ぜた春の錦に劣らないように見渡される。 世にも珍しい楽の音をいくつも演奏する。 舞人など、特に選ばせなさって。 |
暮れかかるころに「皇麞こうじょう」という楽の吹奏が波を渡ってきて、人々の船は歓楽陶酔の中に岸へ着き、設けられた |
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1.2.2 | 夜になったので、たいそうまだ飽き足りない心地がして、御前の庭に篝火を燈して、御階のもとの苔の上に、楽人を召して、上達部、親王たちも、皆それぞれの弦楽器や、管楽器などをお得意の演奏をなさる。 |
夜になってしまったことを源氏は残念に思って、前の庭に |
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1.2.3 | 音楽の師匠たちで、特に優れた人たちだけが、双調を吹いて、階上で待ち受けて合わせるお琴の調べを、とてもはなやかにかき鳴らして、「安名尊」を合奏なさるほどは、「生きていた甲斐があった」と、何も分からない身分の低い男までも、御門近くにびっしり並んだ馬、牛車の立っている間に混じって、顔に笑みを浮かべて聞いていた。 |
専門家の中の優美な者だけが選ばれて、 |
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1.2.4 | 空の色も、楽の音も、春の調べと、響きあって、格別に優れている違いを、ご一同はお分かりになるであろう。 一晩中遊び明かしなさる。 返り声に「喜春楽」が加わって、兵部卿宮が、「青柳」を繰り返し美しくお謡いになる。 ご主人の大臣もお声を添えなさる。 |
春の空に春の調子の楽音の響く効果というものを、こうした大管絃楽を行なって堂上の人々は知ったであろうと思われた。終夜音楽はあった。 |
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第三段 蛍兵部卿宮、玉鬘を思う |
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1.3.1 | いつも |
夜も明けてしまった。 朝ぼらけの鳥の囀りを、中宮は築山を隔てて、悔しくお聞きあそばすのであった。 いつも春の光がいっぱいに満ちている六条院であるが、思いを寄せる姫君のいないのが残念なことにお思いになる方々もいたが、西の対の姫君、何一つ欠点のないご器量を、大臣の君も、特別に大事にしていらっしゃるご様子など、すっかり世間の評判となって、ご予想どおりに心をお寄せになる人々が多いようである。 |
夜が明け放れた。この朝ぼらけの鳥のさえずりを、中宮は物を隔ててうらやましくお聞きになったのであった。常に春光の満ちた六条院ではあるが、外来者の若い興奮をそそる対象のないことをこれまで物足らず思った人もあったが、西の対の姫君なる人が出現して、これという欠点のない人であること、源氏が愛して大事にかしずくことが世間に知れた今日では、源氏の予期したとおりに思慕を寄せる者、求婚者になる者が多かった。 |
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1.3.2 | わが そのうちに、ことの |
自分こそ適任者だと自負なさっている身分の方は、つてを求め求めしては、ほのめかし、口に出して申し上げなさる方もあったが、口には出せずに心中思い焦がれている若い公達などもいるのであろう。 その中で、事情を知らないで、内の大殿の中将などは、思いを寄せてしまったようである。 |
わが地位に自信のある人たちは、女房などの中へ |
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1.3.3 | 兵部卿宮は宮で、長年お連れ添いになった北の方もお亡くなりになって、ここ三年ばかり独身で淋しがっていらっしゃったので、気兼ねなく今は求婚なさる。 |
兵部卿の宮も長く |
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1.3.4 | 今朝も、とてもひどく酔ったふりをして、藤の花を冠に挿して、しなやかに振る舞っていらっしゃるご様子、まこと優雅である。 大臣も、お考えになっていたとおりになったと、心の底ではお思いになるが、しいて知らない顔をなさる。 |
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1.3.5 | ご酒宴の折に、ひどく苦しそうになさって、 |
酒杯のまわって来た時、迷惑な色をお見せになって宮は、 |
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1.3.6 | 「内心思うことがございませんでしたら、逃げ出したいところでございます。 とてもたまりません」 |
「私がある望みを持っていないのでしたら、逃げ出してしまう所ですよ。もういけません」 |
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1.3.7 | とすまひたまふ。 |
とお杯をご辞退なさる。 |
と言って、手をお出しになろうとしない。 |
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1.3.8 | 「ゆかりのある方に思いを懸けていますので 淵に身を投げても名誉は惜しくもありません」 |
紫のゆゑに心をしめたれば |
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1.3.9 | と詠んで、大臣の君に、同じ藤の插頭を差し上げなさる。 とてもたいそうほほ笑みなさって、 |
とお言いになってから、源氏に、「あなたはお兄様なのですからお助けください」と源氏にその杯をお譲りになるのであった。源氏は満面に |
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1.3.10 | 「淵に身を投げるだけの価値があるかどうか この春の花の近くを離れないでよく御覧なさい」 |
淵に身を投げつべしやとこの春は 花のあたりを立ちさらで見ん |
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1.3.11 | と |
と無理にお引き止めなさるので、お帰りになることもできないで、今朝の御遊びは、いっそう面白くなる。 |
源氏がぜひと引きとめるので、宮もお帰りになることができなかった。 |
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第四段 中宮、春の季の御読経主催す |
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1.4.1 | 今日は、中宮の御読経の初日なのであった。 そのままお帰りにならず、めいめい休息所をとって、昼のご装束にお召し替えになる方々も多くいた。 都合のある方は、退出などもなさる。 |
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1.4.2 | 午の刻ころに、皆あちらの町に参上なさる。 大臣の君をお始めとして、皆席にずらりとお着きになる。 殿上人なども、残らず参上なさる。 多くは、大臣のご威勢に助けられなさって、高貴で、堂々とした立派な御法会の様子である。 |
正午ごろに皆中宮の御殿へ参った。殿上役人などは残らずそのほうへ行った。源氏の盛んな権勢に助けられて、中宮は百官の |
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1.4.3 | 春の上からの供養のお志として、仏に花を供えさせなさる。 鳥と蝶とにし分けた童女八人は、器量などを特にお揃えさせなさって、鳥には、銀の花瓶に桜を挿し、蝶には、黄金の瓶に山吹を、同じ花でも房がたいそうで、世にまたとないような色艶のものばかりを選ばせなさった。 |
春の |
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1.4.4 | 南の御前の山際から漕ぎ出して、庭先に出るころ、風が吹いて、瓶の桜が少し散り交う。 まことにうららかに晴れて、霞の間から現れ出たのは、とても素晴らしく優美に見える。 わざわざ平張なども移させず、御殿に続いている渡廊を、楽屋のようにして、臨時に胡床をいくつも用意した。 |
南の御殿の山ぎわの所から、船が中宮の御殿の前へ来るころに、微風が出て瓶の桜が少し水の上へ散っていた。うららかに晴れたその霞の中から、この花の使者を乗せた船の出て来た形は |
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1.4.5 | 童女たちが、御階の側に寄って、幾種もの花を奉る。 行香の人々が取り次いで、閼伽棚にお加えさせになる。 |
童女たちは |
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第五段 紫の上と中宮和歌を贈答 |
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1.5.1 | お手紙、殿の中将の君から差し上げさせなさった。 |
紫の女王の手紙は子息の源中将が持って来た。 |
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1.5.2 | 「花園の胡蝶までを下草に隠れて 秋を待っている松虫はつまらないと思うのでしょうか」 |
花園の 秋まつ虫はうとく見るらん |
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1.5.3 | 中宮は、「あの紅葉の歌のお返事だわ」と、ほほ笑んで御覧あそばす。 昨日の女房たちも、 |
というのである。中宮はあの |
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1.5.4 | 「なるほど、春の美しさは、とてもお負かせになれないわ」 |
春をおけなしになることはできますまい |
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1.5.5 | と、 「 |
と、花にうっとりして口々に申し上げていた。 鴬のうららかな声に、「鳥の楽」がはなやかに響きわたって、池の水鳥もあちこちとなく囀りわたっているうちに、「急」になって終わる時、名残惜しく面白い。 「蝶の楽」は、「鳥の楽」以上にひらひらと舞い上がって、山吹の籬のもとに咲きこぼれている花の蔭から舞い出る。 |
と、すっかり春に降参して言っていた。うららかな |
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1.5.6 | かねてしも |
中宮の亮をはじめとして、しかるべき殿上人たちが、禄を取り次いで、童女に賜る。 鳥には桜襲の細長、蝶には山吹襲の細長を賜る。 前々から準備してあったかのようである。 楽の師匠たちには、白の一襲、巻絹などを、身分に応じて賜る。 中将の君には、藤襲の細長を添えて、女装束をお与えになる。 お返事は、 |
中宮の |
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1.5.7 | 「昨日は声を上げて泣いてしまいそうでした。 |
昨日は泣き出したくなりますほどうらやましく思われました。 |
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1.5.8 | 胡蝶にもつい誘われたいくらいでした 八重山吹の隔てがありませんでしたら」 |
こてふにも誘はれなまし心ありて 八重山吹を隔てざりせば |
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1.5.9 | とあったのだ。 優れた経験豊かなお二方に、このような論争は荷がかち過ぎたのであろうか、想像したほどに見えないお詠みぶりのようである。 |
というのであった。すぐれた |
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1.5.10 | そうそう、あの見物の女房たちで、宮付きの人々には、皆結構な贈り物をいろいろとお遣わしになった。 そのようなことは、こまごまとしたことなので厄介である。 |
昨日のことであるが、招かれて行った女房たちの、中宮のほうから来た人たちには意匠のおもしろい贈り物がされたのであった。そんなことをあまりこまごまと記述することは読者にうるさいことであるから省略する。 |
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1.5.11 | 朝に夕につけ、このようなちょっとしたお遊びも多く、ご満足にお過ごしになっているので、仕えている女房たちも、自然と憂いがないような気持ちがして、あちらとこちらとお互いにお手紙のやりとりをなさっている。 |
毎日のようにこうした遊びをして暮らしている六条院の人たちであったから、女房たちもまた幸福であった。各夫人、姫君の間にも手紙の行きかいが多かった。 |
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第二章 玉鬘の物語 初夏の六条院に求婚者たち多く集まる |
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第一段 玉鬘に恋人多く集まる |
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2.1.1 | 西の対の御方は、あの踏歌の時のご対面以後は、こちらともお手紙を取り交わしなさる。 深いお心用意という点では、浅いとかどうかという欠点もあるかも知れないが、態度がとてもしっかりしていて、親しみやすい性格に見えて、気のおけるようなところもおありでない性格の方なので、どの御方におかれても皆好意をお寄せ申し上げていらっしゃる。 |
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2.1.2 | 言い寄るお方も大勢いらっしゃる。 けれども、大臣は、簡単にはお決めになれそうにもなく、ご自身でもちゃんと父親らしく通すことができないようなお気持ちもあるのだろうか、「実の父大臣にも知らせてしまおうかしら」などと、お考えになる時々もある。 |
いいかげんに自分だけでこのことはだれにと決めてしまうことのできないことであると源氏は思っているのであった。自身でも親の心になりきってしまうことが不可能な気がするのか、実父に |
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2.1.3 | 殿の中将は、少しお側近く、御簾の側などにも寄って、お返事をご自身でなさったりするのを、女は恥ずかしくお思いになるが、しかるべきお間柄と女房たちも存じ上げているので、中将はきまじめで思いもかけない。 |
源中将は親しい気持ちで玉鬘の居間の |
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2.1.4 | 内の大殿の公達は、この中将の君にくっついて、何かと意中をほのめかし、切ない思いにうろうろするが、そうした恋心の気持ちでなく、内心つらく、「実の親に子供だと知って戴きたいものだ」と、人知れず思い続けていらっしゃるが、そのようにはちょっとでもお申し上げにならず、ひたすらご信頼申し上げていらっしゃる心づかいなど、かわいらしく若々しい。 似ているというのではないが、やはり母君の感じにとてもよく似ていて、こちらは才気が加わっていた。 |
内大臣家の |
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第二段 玉鬘へ求婚者たちの恋文 |
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2.2.1 | 衣更のはなやかに改まったころ、空の様子などまでが、不思議とどことなく趣があって、のんびりとしていらっしゃるので、あれこれの音楽のお遊びを催してお過ごしになっていると、対の御方に、人々の懸想文が多くなって行くのを、「思っていた通りだ」と面白くお思いになって、何かというとお越しになっては御覧になって、しかるべき相手にはお返事をお勧め申し上げなさったりなどするのを、気づまりなつらいこととお思いになっている。 |
衣がえをする初夏は、空の気持ちなども理由なしに感じのよい季節であるが、 |
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2.2.2 | 兵部卿宮が、まだ間もないのに恋い焦がれているような怨み言を書き綴っていらっしゃるお手紙をお見つけになって、にこやかにお笑いになる。 |
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2.2.3 | 「はやうより なほ、 すこしもゆゑあらむ いとけしきある |
「子供のころから分け隔てなく、大勢の親王たちの中で、この君とは、特に互いに親密に思ってきたのだが、ただこのような恋愛の事だけは、ひどく隠し通してきてしまったのだが、この年になって、このような風流な心を見るのが、面白くもあり感に耐えないことでもあるよ。 やはり、お返事など差し上げなさい。 少しでもわきまえのあるような女性で、あの親王以外に、また歌のやりとりのできる人がいるとは思えません。 とても優雅なところのあるお人柄ですよ」 |
「私は若い時からおおぜいの兄弟たちの中で、この宮とだけは最も親密な交際ができたのだが、恋愛問題については私に話されたことがなかったし、私もその方面のことは別にしてあったものだが、今になって宮の恋のお悩みに触れるということで、私は満足もでき、また物哀れな気にもなる。ぜひこのかたなどにはお返事をお書きなさい。少し見識を備えた女が、交際を始める価値のある男と言ってはこの宮以外にあるとも思えないかたなのですからね」 |
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2.2.4 | と、 |
と、若い女性は夢中になってしまいそうにお聞かせになるが、恥ずかしがってばかりいらっしゃった。 |
などと若い女の心を |
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2.2.5 | 右大将で、たいそう実直で、ものものしい態度をした人が、「恋の山路では孔子も転ぶ」の真似でもしそうな様子に嘆願しているのも、そのような人の恋として面白いと、全部をご比較なさる中で、唐の縹の紙で、とてもやさしく、深くしみ込んで匂っているのを、とても細く小さく結んだのがある。 |
右大将が高官の典型のようなまじめな |
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2.2.6 | 「これは、どういう理由で、このように結んだままなのですか」 |
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2.2.7 | とて、 |
と言って、お開きになった。 筆跡はとても見事で、 |
あけて見るときれいな字で、 |
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2.2.8 | 「こんなに恋い焦がれていてもあなたはご存知ないでしょうね 湧きかえって岩間から溢れる水には色がありませんから」 |
思ふとも君は知らじな 岩 |
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2.2.9 | 書き方も当世風でしゃれていた。 |
と書いてある。書き方に近代的なはかなさが見せてあるのである。 |
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2.2.10 | 「これはいかなるぞ」 |
「これはどうした文なのですか」 |
「これはどんな人のですか」 |
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2.2.11 | と |
とお尋ねになったが、はっきりとはお答えにならない。 |
と源氏は聞くのであるが、はかばかしい返辞を玉鬘はしない。 |
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第三段 源氏、玉鬘の女房に教訓す |
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2.3.1 | 右近を呼び出して、 |
源氏は右近を呼び出した。 |
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2.3.2 | 「このように手紙を差し上げる方を、よく人選して、返事などさせなさい。 浮気で軽薄な新しがりやな女が、不都合なことをしでかすのは、男の罪とも言えないのだ。 |
「こんな手紙をよこす人たちに細心な注意を払ってね、分類をしてね、返事をすべき人には返事をさせなければいけない。近ごろの男が暴力で恋を遂げるというようなことも、必ずしも男の |
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2.3.3 | また、さて |
自分の経験から言っても、ああ何と薄情な、恨めしいと、その時は、情趣を解さない女なのか、もしくは身の程をわきまえない生意気な女だと思ったが、特に深い思いではなく、花や蝶に寄せての便りには、男を悔しがらせるように返事をしないのは、かえって熱心にさせるものです。 また、それで男の方がそのまま忘れてしまうのは、女に何の罪がありましょうか。 |
それは私自身も体験したことで、あまりに冷淡だ、無情だ、恨めしいと、そんな気持ちが積もり積もって、無法をしてしまうのだ。またそれが身分の低い女であれば、失敬な態度だと思っては罪を犯すことにもなるのだ。 |
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2.3.4 | ものの すべて、 |
何かの折にふと思いついたようないいかげんな恋文に、すばやく返事をするものと心得ているのも、そうしなくてもよいことで、後々に難を招く種となるものです。 総じて、女が遠慮せず、気持ちのままに、ものの情趣を分かったような顔をして、興あることを知っているというのも、その結果よからぬことに終わるものですが、宮や、大将は、見境なくいいかげんなことをおっしゃるような方ではないし、また、あまり情を解さないようなのも、あなたに相応しくないことです。 |
たいしたことでなしに、花や蝶につけての返事はして、この程度の交際を持続させておくことも相手を熱心にさせる効果のあるものだからね。あるいはまたそれなりに双方で忘れてしまうことになっても少しもさしつかえのないことだ。けれどまた誠意のない出来心で手紙をよこしたような場合にすぐ返事を書いてやるのもよろしくない。あとで批難されても弁解のしようがない。全体女というものは、慎み深くしていずに、動いた感情をありのままに相手へ見せることをしては、結果は必ずよくないものだが、宮や大将が |
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2.3.5 | その |
この方々より下の人には、相手の熱心さの度合に応じて、愛情のほどを判断しなさい。 熱意のほどをも考えなさい」 |
またそれ以下の人たちのことは、忍耐力の強さ、月日の長さ短さによって、それ相応に好意的な返事をするのだね」 |
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2.3.6 | など |
などと申し上げなさるので、姫君は横を向いていらっしゃる、その横顔がとても美しい。 撫子の細長に、この季節の花の色の御小袿、色合いが親しみやすく現代的で、物腰などもそうはいっても、田舎くさいところが残っていたころは、ただ素朴で、おっとりとしたふうにばかりお見えであったが、御方々の有様を見てお分かりになっていくにつれて、とても姿つきもよく、しとやかに、化粧なども気をつけてなさっているので、ますます足らないところもなく、はなやかでかわいらしげである。 他人の妻とするのは、まことに残念に思わずにはいらっしゃれない。 |
と源氏が言っている間、顔を横向けていた |
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第四段 右近の感想 |
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2.4.1 | 右近も、ほほ笑みながら拝見して、「親と申し上げるには、似合わない若くていらっしゃるようだ。 ご夫婦でいらっしゃったほうが、お似合いで素晴しろう」と、思っていた。 |
右近も二人を |
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2.4.2 | 「さらに それをだに、 |
「けっして殿方のお手紙などは、お取り次ぎ申したことはございません。 以前からご存知で御覧になった三、四通の手紙は、突き返して、失礼申し上げてもどうかと思って、お手紙だけは受け取ったりなど致しておりますようですが、お返事は一向に。 お勧めあそばす時だけでございます。 それだけでさえ、つらいことに思っていらっしゃいます」 |
「ほかからのお手紙のお取り次ぎは決してだれもいたさないのでございます。前からも送っておいでになります方のは、三度も四度も続けてお返しばかりしてはと思いまして、ただ私たちだけでお預かりしているのでございますから、お返事は、殿様が書けとお言いになります分だけを、それも迷惑がってお書きになるだけなのでございます」 |
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2.4.3 | と |
と申し上げる。 |
と右近が言う。 |
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2.4.4 | 「ところで、この若々しく結んであるのは誰のだ。 たいそう綿々と書いてあるようだな」 |
「それにしてもこの控え目な結んであった手紙はだれのかね。苦心の跡の見えるものだ」 |
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2.4.5 | と、ほほ |
と、にっこりして御覧になると、 |
微笑を浮かべながら源氏はこの手紙に目を落としていた。 |
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2.4.6 | 「あれは、しつこく言って置いて帰ったものです。 内の大殿の中将が、ここに仕えているみるこを、以前からご存知だった、その伝てでことずかったのでございます。 また他には目を止めるような人はございませんでした」 |
「それはぜひ置かせてくれとお言いになったのでございまして、内大臣家の中将さんがこちらの |
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2.4.7 | と |
と申し上げると、 |
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2.4.8 | 「いとらうたきことかな。 さるなかにも、いとしづまりたる おのづから |
「たいそうかわいらしいことだな。 身分が低くとも、あの人たちを、どうしてそのように失礼な目に遭わせることができようか。 公卿といっても、この人の声望に、必ずしも匹敵するとは限らない人が多いのだ。 そうした人の中でも、たいそう沈着な人である。 いつかは分かる時が来よう。 はっきり言わずに、ごまかしておこう。 見事な手紙であるよ」 |
「かわいい話ではないか。今は殿上役人級であっても、あの人たちに失敬なことをしていい訳はない。 |
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2.4.9 | など、とみにもうち |
などと、すぐには下にお置きにならない。 |
と言って、源氏はその手紙をすぐにも下へ置かずに見ていた。 |
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第五段 源氏、求婚者たちを批評 |
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2.5.1 | 「かう なほ |
「このようにいろいろとご注意申し上げるのも、ご不快にお思いになることもあろうかと、気がかりですが、あの大臣に知っていただかれなさることも、まだ世間知らずで何の後楯もないままに、長年離れていた兄弟のお仲間入りをなさることは、どうかといろいろと思案しているのです。 やはり世間の人が落ち着くようなところに落ち着けば、人並みの境遇で、しかるべき機会もおありだろうと思っていますよ。 |
「私がいろいろと考えたり、言ったりしていても、あなたにこうしたいと思っておいでになることがないのであろうかと、気づかわしい所もあります。内大臣に名のって行くことも、まだ結婚前のあなたが、長くいっしょにいられる夫人や子供たちの中へはいって行って幸福であるかどうかが疑問だと思って私は |
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2.5.2 | 宮は、独身でいらっしゃるようですが、人柄はたいそう浮気っぽくて、お通いになっている所が多いというし、召人とかいう憎らしそうな名の者が、数多くいるということです。 |
兵部卿の宮は表面独身ではいられるが、女好きな方で、通ってお行きになる人の家も多いようだし、また |
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2.5.3 | そのようなことは、憎く思わず大目に見過されるような人なら、とてもよく穏便にすますでしょう。 少し心に嫉妬の癖があっては、夫に飽きられてしまうことが、やがて生じて来ましょうから、そのお心づかいが大切です。 |
そんな関係というものは、夫人になる人が |
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2.5.4 | 大将は、長年連れ添った北の方が、ひどく年を取ったのに、嫌気がさしてと求婚しているということですが、それも回りの人々が面倒なことだと思っているようです。 それも当然なことなので、それぞれに、人知れず思い定めかねております。 |
右大将は若い時からいっしょにいた夫人が年上であることなどから、その人と別れるためにも、新たな結婚をしたがっているのですが、しかし、それも |
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2.5.5 | かうざまのことは、 まろを、 |
このような問題は、親などにも、はっきりと、自分の考えはこうこうだといって、話し出しにくいことであるが、それ程のお年でもない。 今は、何事でもご自分で判断がおできになれましょう。 わたしを、亡くなった方と同様に思って、母君とお思いになって下さい。 お気持に添わないことは、お気の毒で」 |
こんなことは親にもはっきりと意見の述べられない問題なのだが、あなたもひどくまだ若いというのではないから、自身の結婚する相手について判断のできない訳はないと思う。私をあなたのお母様だと思って、何でも相談してくだすったらいいと思う。あなたに不満足な思いをさせるような結婚はさせたくないと私は思っているのです」 |
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2.5.6 | など、いとまめやかにて いと |
などと、たいそう真面目にお申し上げになるので、困ってしまって、お返事申し上げようというお気持ちにもなれない。 あまり子供っぽいのも愛嬌がないと思われて、 |
こう源氏はまじめに言っていたが、 |
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2.5.7 | 「何の分別もなかったころから、親などは知らない生活をしてまいりましたので、どのように思案してよいものか考えようがございません」 |
「まだ物心のつきませんころから、親というものを目に見ない世界にいたのでございますから、親がどんなものであるか、親に対する気持ちはどんなものであるか私にはわかってないのでございます」 |
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2.5.8 | と、 |
と、お答えなさる様子がとてもおおようなので、なるほどとお思いになって、 |
このおおような言葉がよくこの人を現わしていると源氏は思った。そう思うのがもっともであるとも思った。 |
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2.5.9 | 「それならば世間が俗にいう、後の養父をそれとお思いになって、並々ならぬ厚志のほどを、最後までお見届け下さいませんでしょうか」 |
「では、親のない子は育ての親を信頼すべきだという世間の言いならわしのように私の誠意をだんだんと認めていってくれますか」 |
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2.5.10 | などと、こまごまとお話になる。 心の底にお思いになることは、きまりが悪いので、口にはお出しにならない。 意味ありげな言葉は時々おっしゃるが、気づかない様子なので、わけもなく嘆息されてお帰りになる。 |
などと源氏は言っていた。恋しい心の芽ばえていることなどは気恥ずかしくて言い出せなかった。それとなくその気持ちを言う言葉は時々混ぜもするのであるが、気のつかぬふうであったから、 |
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第三章 玉鬘の物語 夏の雨と養父の恋慕の物語 |
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第一段 源氏、玉鬘と和歌を贈答 |
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3.1.1 | お庭先の呉竹が、たいそう若々しく伸びてきて、風になびく様子が愛らしいので、お立ち止まりになって、 |
縁に近くはえた |
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3.1.2 | 「邸の奥で大切に育てた娘も それぞれ結婚して出て行くわけか |
「ませのうらに根深く植ゑし竹の子の おのがよよにや |
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3.1.3 | 思えば恨めしいことだ」 |
その時の気持ちが想像されますよ。寂しいでしょうからね」 |
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3.1.4 | と、 |
と、御簾を引き上げて申し上げなさると、膝行して出て来て、 |
外から |
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3.1.5 | 「今さらどんな場合にわたしの 実の親を探したりしましょうか |
「今さらにいかならんよか若竹の 生ひ始めけん根をば尋ねん |
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3.1.6 | かえって困りますことでしょう」 |
かえって幻滅を味わうことになるでしょうから」 |
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3.1.7 | とお答えなさるのを、たいそういじらしいとお思いになった。 実のところ、 心中ではそうは思っていないのである。どのような機会におっしゃって下さるのだろうかと、気がかりで胸の痛くなる思いでいたが、こ |
源氏は哀れに聞いた。玉鬘の心の中ではそうも思っているのではなかった。どんな時に機会が到来して父を父と呼ぶ日が来るのであろうとたよりない悲しみをしているのであるが、源氏の好意に感激はしていて、 |
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3.1.8 | 「実の親と申し上げても、小さい時からお側にいなかった者は、とてもこんなにまで心をかけて下さらないのでは」 |
実父といっても初めから育てられなかった親は、これほどこまやかな愛を自分に見せてくれないのではあるまいか |
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3.1.9 | と、昔物語をお読みになっても、だんだんと人の様子や、世間の有様がお分かりになって来ると、たいそう気がねして、自分から進んで実の親に知っていただくことは難しいだろう、とお思いになる。 |
と、古い小説などからもいろいろと人生を教えられている |
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第二段 源氏、紫の上に玉鬘を語る |
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3.2.1 | 殿は、ますますかわいいとお思い申し上げなさる。 上にもお話し申し上げなさる。 |
源氏は別れぎわに玉鬘の言ったことで、いっそうその人を |
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3.2.2 | 「不思議に人の心を惹きつける人柄であるよ。 あの亡くなった人は、あまりにも気がはれるところがなかった。 この君は、ものの道理もよく理解できて、人なつこい性格もあって、心配なく思われます」 |
「不思議なほど調子のなつかしい人ですよ。母であった人はあまりに |
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3.2.3 | などと、お褒めになる。 ただではすみそうにないお癖をご存知でいらっしゃるので、思い当たりなさって、 |
この源氏の |
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3.2.4 | 「分別がおありでいらっしゃるらしいのに、すっかり気を許して、ご信頼申し上げていらっしゃるというのは、気の毒ですわ」 |
「理解力のある方にもせよ、全然あなたを信用してたよっていてはどんなことにおなりになるかとお気の毒ですわ」 |
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3.2.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と |
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3.2.6 | 「どうして、頼りにならないことがありましょうか」 |
「私は信頼されてよいだけの自信はあるのだが」 |
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3.2.7 | と |
とお答えなさるので、 |
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3.2.8 | 「さあどうでしょうか、わたしでさえも、堪えきれずに、悩んだ折々があったお心が、思い出される節々がないではございませんでした」 |
「いいえ、私にも経験があります。悩ましいような御様子をお見せになったことなど、そんなこと私はいくつも覚えているのですもの」 |
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3.2.9 | と、微笑して申し上げなさると、「まあ、察しの早いことよ」と思われなさって、 |
微笑をしながら言っている夫人の神経の鋭敏さに驚きながら、源氏は、 |
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3.2.10 | 「嫌なことを邪推なさいますなあ。 とても気づかずにはいない人ですよ」 |
「あなたのことなどといっしょにするのはまちがいですよ。そのほかのことで私は十分あなたに信用されてよいこともあるはずだ」 |
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3.2.11 | と言って、厄介なので、言いさしなさって、心の中で、「上がこのように推量なさるのも、どうしたらよいものだろうか」とお悩みになり、また一方では、道に外れたよからぬ自分の心の程も、お分かりになるのであった。 |
と言っただけで、やましい源氏はもうその話に触れようとしないのであったが、心の中では、妻の疑いどおりに自分はなっていくのでないかという不安を覚えていた。同時にまた若々しいけしからぬ心であると反省もしていたのである。 |
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3.2.12 | 気にかかるままに、頻繁にお越しになってはお目にかかりなさる。 |
気にかかる玉鬘を源氏はよく見に行った。 |
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第三段 源氏、玉鬘を訪問し恋情を訴える |
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3.3.1 | 雨が少し降った後の、とてもしっとりした夕方、お庭先の若い楓や、柏木などが、青々と茂っているのが、何となく気持ちよさそうな空をお覗きになって、 |
しめやかな夕方に、前の庭の |
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3.3.2 | 「和して且た清し」 |
「和しまた清し」 |
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3.3.3 | とお口ずさみなさって、まずは、この姫君のご様子の、つややかな美しさをお思い出しになられて、いつものように、ひっそりとお越しになった。 |
と詩の句を口ずさんでいたが、玉鬘の豊麗な |
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3.3.4 | 手習いなどをして、くつろいでいらっしゃったが、起き上がりなさって、恥ずかしがっていらっしゃる顔の色の具合、とても美しい。 物柔らかな感じが、ふと昔の母君を思い出さずにはいらっしゃれないのも、堪えきれなくて、 |
手習いなどをしながら気楽な風でいた玉鬘が、起き上がった恥ずかしそうな顔の色が美しく思われた。その柔らかいふうにふと昔の夕顔が思い出されて、源氏は悲しくなったまま言った。 |
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3.3.5 | 「 あはれなるわざなりけり。 |
「初めてお会いした時は、とてもこんなにも似ていらっしゃるまいと思っていましたが、不思議と、まるでその人かと間違えられる時々が何度もありました。 感慨無量です。 中将が、少しも昔の母君の美しさに似ていないのに見慣れて、そんなにも親子は似ないものと思っていたが、このような方もいらっしゃったのですね」 |
「あなたにはじめて |
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3.3.6 | とて、 |
とおっしゃって、涙ぐんでいらっしゃった。 箱の蓋にある果物の中に、橘の実があるのをいじりながら、 |
涙ぐんでいるのであった。そこに置かれてあった箱の |
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3.3.7 | 「あなたを昔懐かしい母君と比べてみますと とても別の人とは思われません |
「橘のかをりし 変はれる身とも思ほえぬかな |
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3.3.8 | いつになっても心の中から忘れられないので、慰めることなくて過ごしてきた歳月だが、こうしてお世話できるのは夢かとばかり思ってみますが、やはり堪えることができません。 お嫌いにならないでくださいよ」 |
長い年月の間、どんな時にも恋しく思い出すばかりで、慰めは少しも得られなかった私が、故人にそのままなあなたを家の中で見ることは、夢でないかとうれしいにつけても、また昔が思われます。あなたも私を愛してください」 |
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3.3.9 | と言って、お手を握りなさるので、女は、このようなことに経験がおありではなかったので、とても不愉快に思われたが、おっとりとした態度でいらっしゃる。 |
と言って、 |
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3.3.10 | 「懐かしい母君とそっくりだと思っていただくと わたしの身までが同じようにはかなくなってしまうかも知れません」 |
袖の香をよそふるからに橘の みさへはかなくなりもこそすれ |
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3.3.11 | 困ったと思ってうつ伏していらっしゃる姿、たいそう魅力的で、手つきのふっくらと肥っていらっしゃって、からだつき、肌つきがきめこまやかでかわいらしいので、かえって物思いの種になりそうな心地がなさって、今日は少し思っている気持ちをお耳に入れなさった。 |
と言ったが、不安な気がして下を向いている玉鬘の様子が美しかった。手がよく肥えて |
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3.3.12 | 女は、つらくて、どうしようかしらと思われて、ぶるぶる震えている様子もはっきり分かるが、 |
女は悲しく思って、どうすればよいかと思うと、 |
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3.3.13 | 「 いとよくも さりげなくてをもて いとかう |
「どうして、そんなにお嫌いになるのですか。 うまくうわべをつくろって、誰にも非難されないように配慮しているのですよ。 何でもないようにお振る舞いなさい。 いいかげんにはお思い申していません思いの上に、さらに新たな思いが加わりそうなので、世に類のないような心地がしますのに、この懸想文を差し上げる人々よりも、軽くお見下しになってよいものでしょうか。 とてもこんなに深い愛情がある人は、世間にはいないはずなので、気がかりでなりません」 |
「なぜそんなに私をお憎みになる。今まで私はこの感情を |
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3.3.14 | とおっしゃる。 実にさしでがましい親心である。 |
と源氏は言った。変態的な理屈である。 |
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第四段 源氏、自制して帰る |
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3.4.1 | 雨はやんで、風の音が竹林の中から生じるころ、ぱあっと明るく照らし出した月の光、美しい夜の様子もしっとりとした感じなので、女房たちは、こまやかなお語らいに遠慮して、お近くには伺候していない。 |
雨はすっかりやんで、竹が風に鳴っている上に月が出て、しめやかな気になった。女房たちは親しい話をする主人たちに遠慮をして遠くへ去っていた。始終 |
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3.4.2 | いつもお目にかかっていらっしゃるお二方であるが、このようによい機会はめったにないので、言葉にお出しになったついでの、抑えきれないお思いからであろうか、柔らかいお召し物のきぬずれの音は、とても上手にごまかしてお脱ぎになって、お側に臥せりなさるので、とてもつらくて、女房の思うことも奇妙に、たまらなく思われる。 |
玉鬘は情けない気がした。人がどう言うであろうと思うと非常に悲しくなった。実父の所であれば、愛は薄くてもこんな |
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3.4.3 | 「実の親のもとであったならば、冷たくお扱いになろうとも、このようなつらいことはあろうか」と悲しくなって、隠そうとしても涙がこぼれ出しこぼれ出し、とても気の毒な様子なので、 |
玉鬘がそんなにも心を苦しめているのを見て、 |
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3.4.4 | 「かう もて これよりあながちなる おぼろけに |
「そのようにお嫌がりになるのがつらいのです。 全然見知らない男性でさえ、男女の仲の道理として、みな身を任せるもののようですのに、このように年月を過ごして来た仲の睦まじさから、この程度のことを致すのに、何と嫌なことがありましょうか。 これ以上の無体な気持ちは、けっして致しません。 一方ならぬ堪えても堪えきれない気持ちを、晴らすだけなのですよ」 |
「そんなに私を恐れておいでになるのが恨めしい。それまでに親しんでいなかった人たちでも、夫婦の道の第一歩は、人生の |
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3.4.5 | とて、あはれげになつかしう まして、かやうなるけはひは、ただ |
と言って、しみじみとやさしくお話し申し上げなさることが多かった。 まして、このような時の気持ちは、まるで昔の時と同じ心地がして、たいそう感慨無量である。 |
と源氏は言ったが、なお続いて物哀れな調子で、恋しい心をいろいろに告げていた。こうして二人並んで身を横たえていることで、源氏の心は昔がよみがえったようにも思われるのである。 |
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3.4.6 | ご自分ながらも、「だしぬけで軽率なこと」と思わずにはいらっしゃれないので、まことによく反省なさっては、女房も変に思うにちがいないので、ひどく夜を更かさないでお帰りになった。 |
自身のことではあるが、これは軽率なことであると考えられて、反省した源氏は、人も不審を起こすであろうと思って、あまり夜も |
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3.4.7 | 「お厭いなら、とてもつらいことでしょう。 他の人は、こんなに夢中にはなりませんよ。 限りなく、底深い愛情なので、人が変に思うようなことはけっしてしません。 ただ亡き母君が恋しく思われる気持ちの慰めに、ちょとしたことでもお話し申したい。 そのおつもりでお返事などをして下さい」 |
「こんなことで私をおきらいになっては私が悲しみますよ。よその人はこんな思いやりのありすぎるものではありませんよ。限りもない、底もない深い恋を持っている私は、あなたに迷惑をかけるような行為は決してしない。ただ帰って来ない昔の恋人を悲しむ心を慰めるために、あなたを仮にその人としてものを言うことがあるかもしれませんが、私に同情してあなたは仮に恋人の口ぶりでものを言っていてくだすったらいいのだ」 |
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3.4.8 | と、いとこまかに |
と、たいそう情愛深く申し上げなさるが、度を失ったような状態で、とてもとてもつらいとお思いになっていたので、 |
と出がけに源氏はしんみりと言うのであったが、 |
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3.4.9 | 「とてもそれ程までとは存じませんでしたお気持ちを、これはまたこんなにもお憎みのようですね」 |
「これほど寛大でないあなたとは思っていなかったのに、非常に憎むのですね」 |
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3.4.10 | と |
と嘆息なさって、 |
と |
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3.4.11 | 「けっして、 |
「だれにもいっさい言わないことにしてください」 |
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3.4.12 | とて、 |
とおっしゃって、お帰りになった。 |
と言って帰って行った。 |
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3.4.13 | 女君も、お年こそはおとりになっていらっしゃるが、男女の仲をご存知でない人の中でも、いくらかでも男女の仲を経験したような人の様子さえご存知ないので、これより親しくなるようなことはお思いにもならず、「まったく思ってもみない運命の身の上であるよ」と、嘆いていると、とても気分も悪いので、女房たち、ご気分が悪そうでいらっしゃると、お困り申している。 |
玉鬘は年齢からいえば何ももうわかっていてよいのであるが、まだ男女の秘密というものはどの程度のものを言うのかを知らない。今夜源氏の行為以上のものがあるとも思わなかったから、非常な不幸な身になったようにも |
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3.4.14 | 「殿のお心づかいが、行き届いて、もったいなくもいらっしゃいますこと。 実のお父上でいらっしゃっても、まったくこれ程までお気づきなさらないことはなく、至れり尽くせりお世話なさることはありますまい」 |
「病気ででもおありになるようだ」と心配していた。「殿様は御親切でございますね。ほんとうのお父様でも、こんなにまでよくあそばすものではないでしょう」 |
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3.4.15 | など、 |
などと、兵部なども、そっと申し上げるにつけても、ますます心外で、不愉快なお心の程を、すっかり疎ましくお思いなさるにつけても、わが身の上が情けなく思われるのであった。 |
などと、兵部がそっと来て言うのを聞いても、玉鬘は源氏がさげすまれるばかりであった。それとともに自身の運命も歎かれた。 |
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第五段 苦悩する玉鬘 |
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3.5.1 | 翌朝、お手紙が早々にあった。 気分が悪くて臥せっていらっしゃったが、女房たちがお硯などを差し上げて、「お返事を早く」とご催促申し上げるので、しぶしぶと御覧になる。 白い紙で、表面は穏やかに、生真面目で、とても立派にお書きになってあった。 |
翌朝早く源氏から手紙を送って来た。 |
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3.5.2 | 「またとないご様子は、つらくもまた忘れ難くて。 どのように女房たちはお思い申したでしょう。 |
例もないように冷淡なあなたの恨めしかったことも私は忘れられない。人はどんな想像をしたでしょう。 |
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3.5.3 | 気を許しあって共寝をしたのでもないのに どうしてあなたは意味ありげな顔をして思い悩んでいらっしゃるのでしょう |
うちとけてねも見ぬものを若草の ことありがほに結ぼほるらん |
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3.5.4 | 子供っぽくいらっしゃいますよ」 |
あなたは幼稚ですね。 |
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3.5.5 | と、それでも親めいたお言葉づかいも、とても憎らしいと御覧になって、お返事を差し上げないようなのも、傍目に不審がろうから、厚ぼったい陸奥紙に、ただ、 |
恋文であって、しかも親らしい言葉で書かれてある物であった。玉鬘は |
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3.5.6 | 「頂戴致しました。 気分が悪うございますので、お返事は失礼致します」 |
拝見いたしました。病気をしているものでございますから、失礼いたします。 |
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3.5.7 | とだけあったので、「こういうやりかたは、さすがにしっかりしたものだ」とにっこりして、口説きがいのある気持ちがなさるのも、困ったお心であるよ。 |
と書いた。源氏はそれを見て、さすがにはっきりとした女であると微笑されて、恨むのにも手ごたえのある気がした。 |
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3.5.8 | いったん口に出してしまった後は、「太田の松のように」と思わせることもなく、うるさく申し上げなさることが多いので、ますます身の置き所のない感じがして、どうしてよいか分からない物思いの種となって、ほんとうに気を病むまでにおなりになる。 |
一度口へ出したあとは「おほたの松の」(恋ひわびぬおほたの松のおほかたは色に |
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3.5.9 | こうして、真相を知っている人は少なくて、他人も身内も、まったく実の親のようにお思い申し上げているので、 |
こうしたほんとうのことを知る人はなくて、家の中の者も、外の者も、親と娘としてばかり見ている二人の中にそうした問題の起こっていると、 |
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3.5.10 | 「こんな事情が少しでも世間に漏れたら、ひどく世間の物笑いになり、情けない評判が立つだろうな。 父大臣などがお尋ね当てて下さっても、親身な気持ちで扱っても下さるまいだろうから、他人が思う以上に浮ついたようだと、待ち受けてお思いになるだろうこと」 |
少しでも世間が知ったなら、どれほど人笑われな自分の名が立つことであろう、自分は飽くまでも |
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3.5.11 | と、よろづにやすげなう |
と、いろいろと心配になりお悩みになる。 |
と、 |
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3.5.12 | この |
宮、大将などは、殿のご意向が、相手にしていなくはないと伝え聞きなさって、とても熱心に求婚申し上げなさる。 あの岩漏る中将も、大臣がお認めになっていると、小耳にはさんで、ほんとうの事を知らないで、ただ一途に嬉しくなって、身を入れて熱心に恋の恨みを訴え申してうろうろしているようである。 |
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著作権 |
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