設定 番号 本文 渋谷栄一訳 与謝野晶子訳 注釈 挿絵 ルビ 罫線 登場人物 帖見出し 章見出し 段見出し 列見出し
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この帖の主な登場人物
登場人物 読み 呼称 備考
かおる 侍従
源侍従の君
四位の侍従
薫中将
宰相中将
中納言
源中納言
源氏の子
匂宮 におうのみや 兵部卿宮

今上帝の第三親王
夕霧 ゆうぎり 右大臣
右の大殿
左大臣
左の大殿
源氏の長男
紅梅大納言 こうばいのだいなごん 大納言
藤大納言
大納言殿
大臣
大臣殿
致仕大臣の二男;故柏木の弟
蔵人少将 くろうどのしょうしょう 蔵人少将
少将
三位中将
宰相中将
夕霧の子
左近中将 さこんのちゅうじょう 中将
中将の君
右兵衛督
鬚黒の長男
右中弁 うちゅうべん 弁の君
右大弁
鬚黒の二男
藤侍従 とうじじゅう 侍従の君
主人の侍従
頭中将
鬚黒の三男
大君 おおいきみ 姫君
姉君
御息所
鬚黒の長女
中君 なかのきみ 若君
右の姫君
中の姫君
尚侍
内裏の君
鬚黒の二女
真木柱 まきばしら 北の方
真木柱の君
鬚黒大将の娘;蛍兵部卿宮の北の方
玉鬘 たまかずら 尚侍
尚侍君
前の尚侍君
大上
鬚黒大将の北の方
冷泉院 れいぜいいん 冷泉院の帝


院の上

桐壺帝の皇子
今上帝 きんじょうてい 内裏
朱雀院の皇子
東宮 とうぐう 春宮
今上帝の第一親王


第四十三帖 紅梅

匂宮と紅梅大納言家の物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳
注釈

第一章 紅梅大納言家の物語 娘たちの結婚を思案


第一段 按察使大納言家の家族

1.1.1
そのころ按察使大納言(あぜちのだいなごん)()こゆるは、故致仕(こちじ)大臣(おとど)二郎(じろう)なり。
()せたまひにし右衛門督(うゑもんのかみ)さしつぎよ
(わらは)よりらうらうじう、はなやかなる(こころ)ばへものしたまひし(ひと)にて、なりのぼりたまふ年月(としつき)()へて、まいていと()にあるかひあり、あらまほしうもてなし、(おほん)おぼえいとやむごとなかりける。
そのころ、按察使大納言と申し上げる方は、故致仕の大臣の次男である。
お亡くなりになった衛門督のすぐ次の方であるよ。
子供の時から利発で、はなやかな性質をお持ちだった人で、ご出世なさるに年月とともに、今まで以上にいかにも羽振りがよく、理想的なお暮らしぶりで、帝の御信望もまことに厚いものであった。
按察使(あぜち)大納言といわれている人は、故人になった太政大臣の次男であった。()柏木(かしわぎ)衛門督(えもんのかみ)のすぐの弟である。子供のころから頭角を現わしていて、朗らかで派手(はで)なところのある人だったため、月日とともに地位が進んで、今では自然に権力もできて世間の信望を負っていた。
【そのころ】- 『集成』は「漠然と時を指定する書き方。物語の冒頭の形式「今は昔」「昔」などに准ずるもので、後の橋姫、宿木、手習に同じ書き出しが見られる」。『完訳』は「語り出しの常套句。後文から、前巻より三、四年後と分る」。『新大系』は「匂宮巻と同じころで、夕霧右大臣の時代。「その比」で始まる巻として、他に橋姫・宿木・手習巻があり、続篇物語の際立った特徴。前帖に対して全く新しい人間関係の提示の際の常套句」と注す。
【さしつぎよ】- 「よ」間投助詞。語り手の口吻。
【童より】- 「賢木」巻に初登場、以後、「行幸」「夕霧」巻にも登場。
【御おぼえ】- 帝の御信望。
1.1.2
(きた)方二人(かたふたり)ものしたまひしを、もとよりのは()くなりたまひて、(いま)ものしたまふは、(のち)太政大臣(おほきおとど)御女(おほんむすめ)真木柱離(まきばしらはな)れがたくしたまひし(きみ)を、式部卿宮(しきぶきゃうのみや)にて故兵部卿親王(こひゃうぶきゃうのみこ)あはせたてまつりたまへりしを、親王亡(みこう)せたまひてのち、(しの)びつつ(かよ)ひたまひしかど、年月経(としつきふ)れば、えさしも(はばか)りたまはぬなめり。
北の方が二人いらっしゃったが、最初の方はお亡くなりになって、今いらっしゃる方は、後太政大臣の姫君で、真木柱を離れがたくなさった姫君を、式部卿宮家の姫として、故兵部卿の親王に御縁づけ申し上げなさったが、親王がお亡くなりになって後、人目を忍んではお通いになったが、年月がたったので、世間に遠慮することもなくなったようである。
夫人は二人あったが、初めからの妻は()くなって、現在の夫人は最近までいた太政大臣の長女で、真木柱(まきばしら)を離れて行くのに悲しんだ姫君を、式部卿(しきぶきょう)の宮家で、これもお亡くなりになった兵部卿(ひょうぶきょう)の宮と結婚をおさせになった人なのである。宮がお(かく)れになったあとで大納言が忍んで通うようになっていたが、年月のたつうちには夫婦として公然に同棲(どうせい)することにもなった。
【もとよりのは】- 系図不詳の人。
【後の太政大臣】- 鬚黒。彼の太政大臣への昇進と死去の年月は不明。
【式部卿宮にて】- 祖父の式部卿宮が引き取って、宮家の姫君として、の意。
【故兵部卿親王に】- 蛍兵部卿宮に。
1.1.3
御子(みこ)は、故北(こきた)(かた)御腹(おほんはら)に、二人(ふたり)のみぞおはしければ、さうざうしとて、神仏(かみほとけ)(いの)りて、(いま)御腹(おほんはら)にぞ、男君一人(をとこぎみひとり)まうけたまへる。
故宮(こみや)御方(おほんかた)に、女君一所(をんなぎみひとところ)おはす。
(へだ)てわかず、いづれをも(おな)じごと、(おも)ひきこえ()はしたまへるを、おのおの御方(おほんかた)(ひと)などは、うるはしうもあらぬ(こころ)ばへうちまじり、なまくねくねしきことも()()時々(ときどき)あれど、(きた)(かた)いと()()れしく(いま)めきたる(ひと)にて、(つみ)なく()りなし、わが御方(おほんかた)ざまに(くる)しかるべきことをもなだらかに()きなし、(おも)(なほ)したまへば、()きにくからでめやすかりけり。
お子様は、亡くなった北の方に、二人だけいらっしゃったので、寂しいと思って、神仏に祈って、今の北の方に、男君を一人お儲けになっていた。
故宮との間に、女君がお一人いらっしゃる。
分け隔てをせず、どちらも同じようにかわいがり申し上げなさっているが、それぞれの御方の女房などは、きれい事には行かない気持ちも交じって、厄介なもめ事も出てくる時があるが、北の方が、とても明朗で現代的な人で、無難にとりなし、ご自分に辛いようなことも、穏やかに聞き入れ、よく解釈し直していらっしゃるので、世間に聞き苦しい事なく無難に過ごしているのであった。
子供は前の夫人から生まれた二人の娘だけであったのを、寂しがって神仏にも祈って今の夫人との間に一人の男の子を設けた。夫人は兵部卿の宮の形見の姫君を一人持っているのである。隔てを置かずに夫婦は母の違った娘と、父のない娘を愛撫(あいぶ)しているのであったが、そちらこちらの姫君付きの女房などの間にうるさい争いなどの起こる時もあるのを、夫人はきわめて明るい快活な性質であったから、継娘(ままむすめ)のほうの女房の罪をつまびらかにしようとはせず、自身の娘のために不利なこともそのまま荒だてずに済ますよう骨を折ったから、家庭はきわめて平和であった。
【二人のみぞ】- 大君(麗景殿女御)と中の君。
【男君一人】- 大夫の君と呼称される。
【故宮の】- 故蛍兵部卿宮と真木柱姫君との間に。
【女君一所】- 宮の御方と呼称される。
【うるはしうもあらぬ心ばへ】- 『集成』は「きれい事では割り切れぬ思い」。『完訳』は「公正に物事を処理できぬ身びいき。嫉妬し不信を抱き合う」と注す。
【わが御方ざまに苦しかるべきことをも】- 連れ子の宮の御方に関する事。

第二段 按察使大納言家の三姫君

1.2.1
(きみ)たち、(おな)じほどに、すぎすぎおとなびたまひぬれば、御裳(おほんも)など()せたてまつりたまふ。
七間(しちけん)寝殿(しんでん)(ひろ)(おほ)きに(つく)りて、南面(みなみおもて)に、大納言殿(だいなごんどの)大君(おほいきみ)西(にし)(なか)(きみ)(ひんがし)(みや)御方(おほんかた)と、()ませたてまつりたまへり。
姫君は、同じ年頃で、次々と大きくおなりになったので、御裳着などお着せ申し上げなさる。
七間の寝殿を、広く大きく造って、南面に、大納言殿と大君、西面に中の君、東面に宮の御方と、お住ませ申し上げなさるのであった。
姫君たちが皆同じほど大人(おとな)になったから裳着(もぎ)の式などを大納言は行なった。七間の寝殿を広く大きく造って、南の座敷には大納言の長女、西のほうには二女、東の座敷には宮の姫君を住ませているのであった。
1.2.2
おほかたにうち(おも)ふほどは、父宮(ちちみや)のおはせぬ心苦(こころぐる)しきやうなれどこなたかなたの御宝物(おほんたからものおほ)くなどして、うちうちの儀式(ぎしき)ありさまなど、(こころ)にくく気高(けだか)くなどもてなして、けはひあらまほしくおはす。
おおかたの想像では、父宮がいらしゃらないお気の毒なようであるが、祖父宮方と父宮方とからの御宝物がたくさんあったりして、内々の儀式や普段の生活など、奥ゆかしく気品のあるお暮らしぶりで、その様子は申し分なくいらっしゃる。
ちょっと思うとこの姫君は心細い身の上のようで気の毒だが、曾祖父(そうそふ)の宮、祖父の太政大臣、父宮などの遺産の分配されたのが多くて、夫人は、高級の貴女の生活の様式をくずさず愛女をかしずくことができて、奥ゆかしい佳人の存在と人から認められていた。
【父宮のおはせぬ心苦しきやうなれど】- 宮の御方には父螢兵部卿宮がいない気の毒さ。
【こなたかなたの御宝物】- 父蛍宮や母方の曾祖父式部卿宮から贈られた宝物。
1.2.3
(れい)の、かくかしづきたまふ()こえありて、次々(つぎつぎ)(したが)ひつつ()こえたまふ人多(ひとおほ)く、内裏(うち)春宮(とうぐう)より()けしきあれど、内裏(うち)には中宮(ちゅうぐう)おはします。
いかばかりの(ひと)かは、かの(おほん)けはひに(なら)びきこえむ。
さりとて、(おも)(おと)卑下(ひげ)せむもかひなかるべし。
春宮(とうぐう)には、右大臣殿(うだいじんどの)女御(にょうご)(なら)(ひと)なげにてさぶらひたまふは、きしろひにくけれど、さのみ()ひてやは。
(ひと)にまさらむと(おも)女子(をんなご)を、宮仕(みやづか)へに(おも)()えては、(なに)本意(ほい)かはあらむ」と(おぼ)したちて、(まゐ)らせたてまつりたまふ。
十七(じふしち)(はち)のほどにて、うつくしう、(にほ)(おほ)かる容貌(かたち)したまへり。
例によって、このように大切になさっているという評判が立って、次々と申し込みなさる方が多く、「帝や、春宮からも御内意はあるが、帝には中宮がいらっしゃる。
どれほどの方が、あのお方にご比肩申せよう。
そうかといって、及ばないと諦めて卑下するのも、宮仕えする甲斐がないだろう。
春宮には、右大臣殿の女御が、並ぶ人がないように伺候していらっしゃるのは、競い合いにくいが、そうとばかり言っていられようか。
人よりすぐれているだろうと思う姫君を、宮仕えに出すことを諦めてしまっては、何の望みがあろうか」とご決意なさって、入内させ申し上げなさる。
十七、八歳のほどで、かわいらしく、派手やかな器量をしていらっしゃった。
妙齢の娘のある家の常で、大納言家へは求婚者が続々現われてきたし、宮中や東宮からお話があるようにもなったが、陛下のおそばには中宮(ちゅうぐう)がおいでになる、どんな人が出て行ってもその方と同じだけの御寵愛(ちょうあい)が得られるわけもない、そう言って身を卑下して後宮の一員に備わっているだけではつまらない、東宮には夕霧の左大臣の長女が侍していて、太子の寵を(もっぱ)らにしているのであるから、競争することは困難であっても、そんなふうにばかり考えていては、人にまさった幸福を得させたいと思う女の子に宮仕えをさせるのを断念しなければならぬことになって、未来の楽しみがいもなかったことになると大納言は思って、長女を東宮へ奉ることにした。年はもう十七、八で美しいはなやかな気のする姫君であった。
【内裏、春宮より】- 今上帝(朱雀院の皇子)と東宮(今上の第一皇子、母明石の中宮)。以下「何の本意かはあらむ」まで、紅梅大納言の心中。
1.2.4
(なか)(きみ)も、うちすがひて、あてになまめかしう、()みたるさまはまさりて、をかしうおはすめれば、ただ(うど)にては、あたらしく()せま()(おほん)さまを、兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)の、さも(おぼ)したらば」など(おぼ)したる。
この若君(わかぎみ)内裏(うち)にてなど()つけたまふ(とき)()しまとはし、(たはぶ)(がたき)にしたまふ。
(こころ)ばへありて、奥推(おくお)(はか)らるるまみ(ひたひ)つきなり。
中の君も、引き続いて、上品で優美で、すっきり落ち着いた点では大君に勝って、美しくいらっしゃるようなので、臣下の人では、惜しく気が進まないご器量なのを、「兵部卿宮が、そのように望んでくださったら」などとお思いになっていた。
この若君を、宮中などで御覧になる時は、お召しまとわせ、遊び相手になさっている。
利発であって、将来の期待される目もとや額つきである。
二女も近い年で、上品な澄みきったような美は姉君にもまさった人であったから、普通の人と結婚させることは惜しく、兵部卿の宮が求婚されたならばと、大納言はそんな望みを持っていた。大納言の一人息子(むすこ)の若君を匂宮(におうみや)は御所などでお見つけになる時があると、そばへお呼びになってよくおかわいがりになった。聡明(そうめい)らしいよい額つきをした子である。
【兵部卿宮の、さも思したらば】- 紅梅大納言の心中。
【この若君を】- 紅梅大納言と真木柱の子、大夫の君。大君や中君とは異腹の兄弟。
【内裏にてなど見つけたまふ時は】- 主語は匂宮。
1.2.5
せうとを()のみはえやまじと、大納言(だいなごん)(まを)せよ」などのたまひかくるを、「さなむ」と()こゆれば、うち()みて、いとかひあり」と(おぼ)したり。
「弟と付き合うだけでは終わりたくないと、大納言に申し上げよ」などとお話しかけになるので、「しかじか」と申し上げると、微笑んで、「まことにその甲斐があった」と思いになっていた。
「弟だけを見ていて満足ができないと大納言に言ってくれ」などとお言いになるのを、そのまま父に話すと、大納言は笑顔(えがお)を見せてうれしそうにした。
【せうとを見て】- 以下「大納言に申せよ」まで、匂宮の詞。姉にも逢いたい、の意。大夫の君には異腹の姉の大君(東宮の麗景殿女御)、中君と同父の姉の宮の御方とがいる。匂宮は連れ子の宮の御方に関心がある。
【いとかひあり】- 紅梅大納言の心中。匂宮が中君に関心を寄せているものと思い喜ぶ。しかし、匂宮は宮の御方に関心がある。
1.2.6
(ひと)(おと)らむ宮仕(みやづか)ひよりはこの(みや)にこそは、よろしからむ女子(をんなご)()せたてまつらまほしけれ。
(こころ)ゆくにまかせて、かしづきて()たてまつらむに、命延(いのちの)びぬべき(みや)(おほん)さまなり」
「人に負けるような宮仕えよりは、この宮にこそ、人並みの姫君は差し上げたいものだ。
思いのままにまかせて、お世話申し上げることになったら、寿命もきっと延びる気がする宮のご様子である」
「人にけおされるような宮仕えよりは兵部卿の宮などにこそ自信のある娘は差し上げるのがいいと私は思う。一所懸命におかしずきすれば命も延びるような気のする宮様だから」
【人に劣らむ宮仕ひよりは】- 以下「宮の御さまなり」まで、紅梅大納言の詞。
1.2.7
とのたまひながら、まづ、春宮(とうぐう)(おほん)ことをいそぎたまひて春日(かすが)(かみ)(おほん)ことわりもわが()にやもし()()て、故大臣(こおとど)の、(ゐん)女御(にょうご)(おほん)ことを、(むね)いたく(おぼ)してやみにし(なぐさ)めのこともあらなむ」と、(こころ)のうちに(いの)りて、(まゐ)らせたてまつりたまひつ。
いと(とき)めきたまふよし、(ひと)びと()こゆ。
とおっしゃりながら、まず、春宮への御入内の事をお急ぎになって、「春日の神の御神託も、わが世にもしや現れ出て、故大臣が、院の女御の御事を、無念にお思いのまま亡くなってしまったお心を慰めることがあってほしい」と、心中に祈って、入内させなさった。
たいそう御寵愛である由を、人びとはお噂申す。
と言いながらも大納言はまず長女を東宮の後宮へ入れる準備をして、春日(かすが)の神意どおりに藤原(ふじわら)氏の皇后を自分の代に出すことができて、父の大臣は院の女御(にょご)を后位の競争に失敗させ、苦い思いをしたままで()くなったのであるから、霊の慰むようにもなればいいと心の中では祈っていた。その人は間もなく太子(きゅう)へはいった。付き添いの女房から御寵愛(ちょうあい)があるという報告が大納言へあった。
【春宮の御ことをいそぎたまひて】- 大君の東宮への入内。
【春日の神の御ことわりも】- 以下「慰めのこともあらなむ」まで、紅梅大納言の心中。藤原氏から皇后が立后するという神託。
【故大臣の、院の女御】- 紅梅大納言の父、故太政大臣の娘の冷泉帝の弘徽殿女御は、源氏の養女の秋好中宮に立后された悔しい思いがある。
1.2.8
かかる(おほん)まじらひの()れたまはぬほどに、はかばかしき御後見(おほんうしろみ)なくてはいかがとて、(きた)方添(かたそ)ひてさぶらひたまへば、まことに(かぎ)りもなく(おも)ひかしづき、後見(うしろみ)きこえたまふ。
このような後宮生活にお馴れにならないうちは、しっかりしたご後見がなくてはどんなものかと、北の方が付き添っていらっしゃるので、ほんとうにこの上もなく大切に思って、ご後見申し上げなさる。
後宮の生活に()れないうちは親身の者が付いていなくてはといって、真木柱夫人がいっしょに御所へ行っていた。優しいこの継母(ままはは)はよく世話をして周囲にも気を配ることを怠らないのであった。
【北の方添ひて】- 紅梅大納言の北の方、真木柱。継母が後見。

第三段 宮の御方の魅力

1.3.1
殿(との)は、つれづれなる心地(ここち)して、西(にし)御方(おほんかた)(ひと)つに()らひたまひていとさうざうしくながめたまふ。
(ひんがし)姫君(ひめぎみ)うとうとしくかたみにもてなしたまはで、夜々(よるよる)一所(ひとところ)大殿籠(おほとのご)もり、よろづの(おほん)こと(なら)ひ、はかなき御遊(おほんあそ)びわざをも、こなたを()のやうに(おも)ひきこえてぞ、()れも(なら)(あそ)びたまひける。
殿は、所在ない心地がして、西の御方は、一緒でいることに馴れていらっしゃたので、とても寂しく物思いに沈んでいらっしゃる。
東の姫君も、よそよそしくお互いになさらず、夜々は同じ所にお寝みになり、いろいろなお稽古事を習い、ちょっとしたお遊び事なども、こちらを先生のようにお思い申し上げて、大君も中の君も習ったり遊んだりしていらっしゃった。
大納言家の内が急に寂しくなった気がして、西の姫君などは始終いっしょに暮らした姉妹(きょうだい)なのであるから、物足らぬ寂しい思いをしていた。東の姫君も大納言の実子の姉妹とは親しく(むつ)び合ってきたのであって、夜分などは皆一つの寝室で休むことにしていて、音楽の稽古(けいこ)をはじめ、遊戯ごとにもいつも東の姫君を師のようにして習ったものである。
【西の御方は】- 中君。
【一つに慣らひたまひて】- 姉の大君と一緒にいることに慣れていた。
【東の姫君も】- 宮の御方。継母の真木柱と先夫蛍兵部卿宮との間の娘、連れ子。
【こなたを師のやうに】- 宮の御方を師匠のようにして。
【誰れも】- 大君や中君をさす。
1.3.2
もの()ぢを()(つね)ならずしたまひて母北(ははきた)(かた)にだに、さやかにはをさをささし(むか)ひたてまつりたまはず、かたはなるまでもてなしたまふものから、(こころ)ばへけはひの(むも)れたるさまならず、愛敬(あいぎゃう)づきたまへること、はた、(ひと)よりすぐれたまへり。
人見知りを世間の人以上になさって、母北の方にさえ、ちゃんとお顔をお見せ申し上げることもなさらず、おかしなほど控え目でいらっしゃる一方で、気立てや雰囲気が陰気なところはなく、愛嬌がおありであることは、それは、誰よりも優れていらっしゃった。
東の女王(にょおう)は非常な内気で、母の夫人にさえも顔を向けて話すことなどはなく、病気と思われるほどに恥ずかしがるところはあるが、性質が明るくて愛嬌(あいきょう)のある点はだれよりもすぐれていた。
【もの恥ぢを世の常ならずしたまひて】- 主語は宮の御方。以下、宮の御方の性格描写が続く。
1.3.3 このように、春宮への入内や何やかやと、ご自分の姫君のことばかり考えてご準備するのも、お気の毒だとお思いになって、
こんなふうに東宮へ長女を奉ったり、二女の将来の目算をしたりして、自身の娘にだけ力を入れているように見られぬかと大納言は恥じて、
【わが方ざまをのみ思ひ急ぐやうなるも、心苦しなど思して】- 主語は紅梅大納言。
1.3.4
さるべからむさまに(おぼ)(さだ)めてのたまへ。
(おな)じこととこそは、(つか)うまつらめ」
「適当なご縁談をお考えになっておっしゃってください。
同じように、お世話いたしましょう」
「姫君にどういうふうな結婚をさせようという方針をきめて言ってください。二人の娘に変わらぬ尽力を私はするつもりなのだから」
【さるべからむさまに】- 以下「仕うまつらめ」まで、紅梅大納言の詞。
1.3.5
と、母君(ははぎみ)にも()こえたまひけれど、
と、母君にも申し上げなさったが、
と大納言は夫人に言ったのであるが、
1.3.6
さらにさやうの()づきたるさま、(おも)()つべきにもあらぬけしきなれば、なかなかならむことは、心苦(こころぐる)しかるべし。
御宿世(おほんすくせ)にまかせて、()にあらむ(かぎ)りは()たてまつらむ。
(のち)ぞあはれにうしろめたけれど、()(そむ)(かた)にてもおのづから人笑(ひとわら)へに、あはつけきことなくて、()ぐしたまはなむ」
「まったくそのような結婚の事は、考えようともしない様子なので、なまじっかの結婚は、気の毒でしょう。
ご運命にまかせて、自分が生きている間はお世話申そう。
死後はかわいそうで心配ですが、出家してなりとも、自然と人から笑われ、軽薄なことがなくて、お過ごしになってほしい」
「結婚などという人並みな空想をあの人に持つことはできませんほど弱い気質なのでございます、それで普通の計らいをしましてはかえって不幸を招くことになると思いますから、運命に任せておくことにしまして、私の生きております間は手もとへ置くことにいたします。それから先は非常に心細く想像されますが、尼になるという道もあるのですし、その時にはもう自身の処置を誤らないだけになっていると思います」
【さらにさやうの】- 以下「過ぐしたまはなむ」まで、母北の方真木柱の詞。
【世にあらむ限りは】- 自分が生きているうちは。
【世を背く方にても】- 宮の御方が。『集成』は「出家して尼になるなりして、それなりに、人の物笑いになるような、軽はずみな失態を犯すことなくお過しになってほしいものです。つまらぬ男と浮き名の立つようなことはあってほしくない、と言う。父兵部卿の宮がいないというひけ目が、母にも適当な縁組を断念させているのであろう」と注す。
1.3.7
など、うち()きて、御心(みこころ)ばせの(おも)ふやうなることをぞ()こえたまふ。
などと、ちょっと泣いて、宮のご性質が立派なことを申し上げなさる。
などと夫人は泣きながら言って、大納言の好意を謝していた。
【御心ばせの思ふやうなることをぞ】- 宮の御方のすぐれた性質をいう。
1.3.8
いづれも()かず(おや)がりたまへど御容貌(おほんかたち)()ばやとゆかしう(おぼ)して、(かく)れたまふこそ心憂(こころう)けれ」と(うら)みて、人知(ひとし)れず、()えたまひぬべしや」と、(のぞ)きありきたまへど、()えてかたそばをだに、()たてまつりたまはず。
どの娘も分け隔てなく親らしくなさるが、ご器量を見たいと心動かされて、「お顔をお見せにならないのが辛いことだ」と恨んで、「こっそりと、お見えにならないか」と、覗いて回りなさるが、全然ちらりとさえお見せにならない。
東の姫君にも同じように父親らしくふるまっている大納言ではあったが、どんな容貌(ようぼう)なのかを見たく思って、「いつもお隠れになるのは困ったことだ」と恨みながら、人知れず見る機会をうかがっていたが、絶対と言ってもよいほど、姫君は影すらも継父に見せないのであった。
【いづれも分かず親がりたまへど】- 紅梅大納言は実子も連れ子も同じように扱う。
1.3.9
(うへ)おはせぬほどは()()はりて(まゐ)()べきを、うとうとしく(おぼ)()くる()けしきなれば、心憂(こころう)くこそ」
「母上がいらっしゃらない間は、代わってわたしが参りますが、よそよそしく分け隔てなさるご様子なので、辛いことです」
「お母様の留守の間は私が代理になって、どんな用の時にも私はこちらへ来るつもりなのだが、まだ親と認めないお扱いを受けるのに悲観されます」
【上おはせぬほどは】- 以下「心憂くこそ」まで、紅梅大納言の詞。母上は大君と共に宮中にいる。
1.3.10
など()こえ、御簾(みす)(まへ)にゐたまへば、(おほん)いらへなど、ほのかに()こえたまふ。
御声(おほんこゑ)けはひなど、あてにをかしう、さま容貌思(かたちおも)ひやられて、あはれにおぼゆる(ひと)()ありさまなり。
わが御姫君(おほんひめぎみ)たちを、(ひと)(おと)らじと(おも)ひおごれど、この(きみ)に、えしもまさらずやあらむ。
かかればこそ、()(なか)(ひろ)きうちはわづらはしけれ。
たぐひあらじと(おも)ふに、まさる(かた)も、おのづからありぬべかめり」など、いとどいぶかしう(おも)ひきこえたまふ。
などと申し上げて、御簾の前にお座りになるので、お返事などを、かすかに申し上げなさる。
お声、様子など、上品で美しく、容姿や器量が想像されて、立派だと感じられるご様子の人である。
ご自分の姫君たちを、誰にも負けないだろうと自慢に思っているが、「この姫君には、とても勝てないだろうか。
こうだからこそ、世間付き合いの広い宮中は厄介なのだ。
二人といまいと思うのに、それ以上の方も自然といることだろう」などと、ますます気がかりにお思い申し上げになさる。
などと、御簾(みす)の前にすわって言っている時、姫君はほのかに返辞くらいはしていた。声やら、気配(けはい)やらの品のよさに美しい容貌も想像される可憐(かれん)な人であった。大納言は自分の娘たちをすぐれたものと見て慢心しているが、この人には劣っているかもしれぬ、だから世界の広いことは個人を安心させないことになる、類がないと思っていても、それ以上な価値の備わったものが他にあることにもなるのであろうなどと思って、いっそう好奇心が()かれた。
【この君に、えしも】- 以下「ありぬべかめり」まで、紅梅大納言の心中。
【世の中の広きうちは】- 『集成』は「この広い世間の内は、気を許せないものなのだ。どんな強敵がいるか分らない、意」。『完訳』は「世間付き合いの多い宮中では。後宮には予測しがたい、すぐれた妃の出現しがちなことを危ぶむ」と注す。

第四段 按察使大納言の音楽談義

1.4.1
(つき)ごろ、(なに)となくもの(さわ)がしきほどに、御琴(おほんこと)()をだにうけたまはらで(ひさ)しうなりはべりにけり。
西(にし)(かた)にはべる(ひと)は、琵琶(びは)(こころ)()れてはべるさもまねび()りつべくやおぼえはべらむ。
なまかたほにしたるに、()きにくきものの()がらなり。
(おな)じくは、御心(みこころ)とどめて(をし)へさせたまへ。
「ここ幾月、何となくごたごたしていたが、お琴の音さえ聴かせて戴かないで久しくなってしまった。
西の方におります人は、琵琶に熱心でございますが、そのように上手に習得できると思っているのでしょうか。
中途半端にしたのでは、聞きにくい楽器の音色です。
同じことなら、十分に念を入れて教えて上げてください。
「ここ数月の間はなんとなく家の中がざわついていまして、あなたの琴の音を長く聞くこともありませんでしたよ。西にいる人は琵琶(びわ)稽古(けいこ)を熱心にしていますよ。上達する自信があるのでしょうか。琵琶はまずく()かれると我慢のならないものです。できますればよく教えてやってください。
【月ごろ、何となく】- 以下「御琴参れ」まで、紅梅大納言の詞。
【琵琶を心に入れてはべる】- 中君は宮の御方から琵琶を習っている。『源氏物語』では琵琶は皇族の血を引く人がよく弾く楽器として登場。源典侍、明石御方、蛍兵部卿宮、宇治大君など。
1.4.2
(おきな)は、とりたてて(なら)ふものはべらざりしかど、そのかみ、(さか)りなりし()(あそ)びはべりし(ちから)にや、()()るばかりのわきまへは、(なに)ごとにもいとつきなうはべらざりしを、うちとけても(あそ)ばさねど時々(ときどき)うけたまはる御琵琶(おほんびは)()なむ、(むかし)おぼえはべる
老人は、特別に習ったものはございませんでしたが、その昔、盛りだったころに合奏に加わったお蔭でしょうか、演奏の上手下手を聞き分ける程度の区別は、どのような楽器にもひどく不案内ということはございませんでしたが、気を許してお弾きになりませんが、時々お聴きするあなたの琵琶の音色は、昔が思い出されます。
この老人はどの芸といって特に深く稽古をしたものといってはないのですが、昔の黄金時代に行なわれた音楽の遊びに参加しただけの功徳で、すべての音楽を通じて耳だけはよく発達しているのです。たくさんはお聞かせになりませんが、時々お聞きするあなたの琵琶の音にはよく昔のその時代を思い出させるものがありますよ。
【うちとけても遊ばさねど】- 主語は、あなた宮の御方。敬語表現。
【昔おぼえはべる】- 『集成』は「昔の世の音色そのままと思われます。昔の名手にも劣らないと、ほめる。尚古思想である」。『完訳』は「往年の琵琶の第一人者は宮の御方の実父蛍宮。ここはそれを回顧しない」と注す。
1.4.3
故六条院(ころくでうのゐん)御伝(おほんつた)へにて、(みぎ)大臣(おとど)なむ、このころ()(のこ)りたまへる。
源中納言(げんちゅうなごん)兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)(なに)ごとにも、(むかし)(ひと)(おと)るまじう、いと(ちぎ)りことにものしたまふ(ひと)びとにて、(あそ)びの(かた)は、()()きて(こころ)とどめたまへるを、()づかひすこしなよびたる撥音(ばちおと)などなむ、大臣(おとど)には(およ)びたまはずと(おも)うたまふるを、この御琴(おほんこと)()こそいとよくおぼえたまへれ。
故六条院のご伝授では、右大臣が、今でも世に残っていらっしゃいます。
源中納言、兵部卿宮は、どのようなことでも、昔の人に負けないほど、まことに前世からの因縁が格別でいらっしゃる方々で、音楽の方面は、特別に熱心でいらっしゃるので、手さばきの少し弱々しい撥の音などが、大臣には負けていらっしゃると存じておりますが、このお琴の音色は、とてもよく似ていらっしゃいます。
現在では六条院からお譲りになった芸で、左大臣だけが名手として残しておいでになりますが、(かおる)中納言、匂宮の若いお二人はすべての点で昔の盛りの御代(みよ)の人に劣らないと思われる天才的な人たちで、熱心におやりになる音楽のほうで言えば、宮様の撥音(ばちおと)の少し弱い点は六条院に及ばぬところであると私は思っているのです。ところがあなたのは非常に院のお撥音に似ています。
【この御琴の音こそ】- あなたの琴の音色は。琴は総称、琵琶をさす。
1.4.4
琵琶(びは)は、押手(おして)しづやかなるをよきにするものなるに、(ぢゅう)さすほど、撥音(ばちおと)のさま()はりて、なまめかしう()こえたるなむ、(をんな)(おほん)ことにて、なかなかをかしかりける。
いで、(あそ)ばさむや。
御琴参(おほんことまゐ)れ」
琵琶は、押し手を静かにするのを上手とする都言いますが、柱を据えた時、撥の音の様子が変わって、優美に聞こえるのが、女性のお琴としては、かえって結構なものです。
さあ、合奏なさいませんか。
お琴を持って参れ」
琵琶は(いと)のおさえ方の確かなのがよいということになっていますが、()をさす間だけ撥音の変わる時の艶な響きは女の弾き手のみが現わしうるもので、かえって女の名手の琵琶のほうを私はおもしろく思いますよ。今からお弾きになりませんか。女房たち、お楽器を」
1.4.5
とのたまふ。
女房(にょうばう)などは、(かく)れたてまつるもをさをさなし。
いと(わか)上臈(じゃうらふ)だつが、()えたてまつらじと(おも)ふはしも、(こころ)にまかせてゐたれば、さぶらふ(ひと)さへかくもてなすが、やすからぬ」と腹立(はらだ)ちたまふ。
とおっしゃる。
女房などは、お隠れ申している者はほとんどいない。
たいそう若い上臈ふうの女房が、姿をお見せ申し上げまいと思っているのは、勝手に奥に座っているので、「お側の女房までがこのように気ままに振る舞うのが、おもしろくない」と腹をお立てになる。
と大納言は言った。女房らは大納言に対してあまり隠れようとはしないのであるが、若い高級の女房の一人で、顔を見せたがらないのが、じっとして動かないのを大納言は、「お付きの人たちさえも私を他人扱いするのがくやしい」と腹をたてて見せたりもした。
【隠れたてまつるも】- 紅梅大納言に対しての敬意。
【さぶらふ人さへかくもてなすが、やすからぬ】- 紅梅大納言の詞。『完訳』は「宮の御方への当てつけがましい言葉」と注す。

第二章 匂兵部卿の物語 宮の御方に執心


第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る

2.1.1
若君(わかぎみ)内裏(うち)(まゐ)らむと、宿直姿(とのゐすがた)にて(まゐ)りたまへる、わざとうるはしきみづらよりも、いとをかしく()えて、いみじううつくしと(おぼ)したり。
麗景殿(れいけいでん)(おほん)ことづけ()こえたまふ。
若君は、宮中へ参内しようと、宿直姿で参上なさったが、特別にきちんとした角髪よりも、とても美しく見えて、たいそうかわいいとお思いになっていた。
麗景殿に、おことづけを申し上げなさる。
若君が御所へ上がろうとして直衣(のうし)姿で父の所へ来た。正装をしてみずらを結った形よりも美しく見える子を、大納言は非常にかわいく思うふうであった。夫人も行っている麗景殿(れいげいでん)へすることづてを大納言はするのであった。
【若君】- 紅梅大納言と真木柱の子、宮の御方の異父弟。
【麗景殿に】- 紅梅大納言の大君。
2.1.2
(ゆづ)りきこえて今宵(こよひ)もえ(まゐ)るまじく、(なや)ましく、など()こえよ」とのたまひて、(ふえ)すこし(つか)うまつれ。
ともすれば、御前(おまへ)御遊(おほんあそ)びに()()でらるる、かたはらいたしや
まだいと(わか)(ふえ)
「お任せ申して、今夜も参ることができない、気分が悪いのだ、などと申し上げよ」とおっしゃって、「笛を少しおつとめ申せ。
どうかすると、御前の御合奏に召し出されるが、はらはらさせられることだ。
まだとても未熟な笛なので」
「お任せしておいて、今夜も私は失礼するだろうと思う、と言うのだよ。気分が少し悪いからと申してくれ」と言ったあとで、「笛を少し吹け、何かというと御前の音楽の集まりにお呼ばれするではないか。困るね。幼稚な芸のものを」
【譲りきこえて】- 以下「聞こえよ」まで、紅梅大納言の詞。若君への伝言。「譲りきこえ」の相手は、大君に付き添っている北の方。
【笛すこし】- 以下「若き笛を」まで、紅梅大納言の詞。
【かたはらいたしや】- 『完訳』は「卑下しながらも自慢する」と注す。
【若き笛を】- 「を」間投助詞、詠嘆の気持ち。
2.1.3
とうち()みて、双調吹(さうでうふ)かせたまふ
いとをかしう()いたまへば、
とほほ笑んで、双調を吹かせなさる。
たいそう美しくお吹きになるので、
微笑をしながらこう言って、双調を子に吹かせた。一人息子がおもしろく笛を吹き出すのを待っていて、
【双調吹かせたまふ】- 「せ」使役の助動詞。紅梅大納言が若君に。
2.1.4
けしうはあらずなりゆくはこのわたりにておのづから(もの)()はするけなり。
なほ、()()はせさせたまへ」
「まままあになって行くのは、この辺りで、何かの折りに合奏するからであろう。
ぜひ、お琴をお弾き合わせ頂きたい」
「悪くはなくなってゆくのも、こちらのお姉様の所で、自然合わさせていただくことになるからだろうね。ぜひただ今も()き合わせてやってください」
【けしうはあらずなりゆくは】- 以下「掻き合はせさせたまへ」まで、紅梅大納言の詞、後半は宮の御方への詞。
【このわたりにて】- 宮の御方をさす。
2.1.5
()めきこえたまへば、(くる)しと(おぼ)したるけしきながら、爪弾(つまび)きにいとよく()はせて、ただすこし()()らいたまふ。
皮笛(かはぶえ)ふつつかに()れたる(こゑ)してこの(ひんがし)のつまに、軒近(のきちか)紅梅(こうばい)の、いとおもしろく(にほ)ひたるを()たまひて、
とお責め申し上げなさるので、辛いとお思いの様子であるが、爪弾きにとてもよく合わせて、ただ少し掻き鳴らしなさる。
口笛を、太い音で物馴れた声して吹いて、この東の端に、軒に近い紅梅が、たいそう美しく咲き匂っているのを御覧になって、
と責められて、女王は困っているふうであったが、爪弾(つまび)きで琵琶をよく合うように少し鳴らした。大納言は口笛で上手(じょうず)な拍子をとるのだった。この座敷の東の側に沿って、軒に近く立った紅梅の美しく咲いたのを大納言は見て、
【皮笛、ふつつかに馴れたる声して】- 主語は紅梅大納言。口笛を吹く。
2.1.6
御前(おまへ)(はな)(こころ)ばへありて()ゆめり。
兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)内裏(うち)におはすなり。
一枝折(ひとえだを)りて(まゐ)れ。
()(ひと)()」とて、あはれ、(ひか)源氏(げんじ)といはゆる御盛(おほんさか)りの大将(だいしゃう)などにおはせしころ、(わらは)にて、かやうにてまじらひ()れきこえしこそ、()とともに(こひ)しうはべれ。
「お庭先の梅が、風情あるように見える。
兵部卿宮は、宮中にいらっしゃるそうだ。
一枝折って差し上げよ。
知る人は知っている」と言って、「ああ、光る源氏、といわれたお盛りの大将などでいらしたころ、子供で、このようにしてお仕え馴れ申したのが、年とともに恋しいことです。
「こちらの梅はことによい。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は宮中においでになるだろうから、一枝折らせてお持ちするがいい。『知る人ぞ知る』(色をも香をも)」こう子供に言いながらまた、大納言は、「光源氏がいわゆる盛りの大将でいられた時代に、子供でちょうどこの子のようにして始終お近づきしたことが今でも私には恋しくてなりません。
【御前の花】- 以下「知る人ぞ知る」まで、大納言の若君(大夫の君)への詞。
【知る人ぞ知る】- 『源氏釈』は「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」(古今集春上、三八、紀友則)を指摘。
【あはれ、光る源氏】- 以下「とこそおぼえはべれ」まで、大納言の詞。
2.1.7
この(みや)たちを世人(よひと)も、いとことに(おも)ひきこえ、げに(ひと)にめでられむとなりたまへる(おほん)ありさまなれど、(はし)(はし)にもおぼえたまはぬは、なほたぐひあらじ(おも)ひきこえし(こころ)のなしにやありけむ。
この宮たちを、世間の人も、たいそう格別にお思い申し上げ、なるほど誰からも誉められるようにおなりになったご様子であるが、まったく問題に思われなさらないのは、やはり絶世の方だとお思い申し上げた気持ちのせいでしょうか。
この宮がたを世間の人はお()めするし、実際愛さるべく作られて来た人のような風采(ふうさい)はお持ちになりますが、光源氏の片端の片端にもお当たりにならないように私の思うのは、すばらしいと子供心にお見上げしたころの深い印象によるものなのかもしれません。
【この宮たちを】- 匂宮や薫。
【なほたぐひあらじ】- 源氏をさす。
2.1.8
おほかたにて、(おも)()でたてまつるに、(むね)あく()なく(かな)しきを、気近(けぢか)(ひと)(おく)れたてまつりて、()きめぐらふは、おぼろけの命長(いのちなが)さなりかし、とこそおぼえはべれ」
世間一般の立場から、お思い出し申し上げるのに、胸の晴れる時もなく悲しいので、身近な人に先立たれ申して、生き残っているのは、並々でなく長生きを辛いことであろう、と思われます」
われわれでさえ院をお思い出しするとお別れしたことは慰みようもない悲しみになるのですから、家族の方がたでお死に別れをしたあとに生き残らねばならなかった人たちは不幸な宿命を負っているのだという気がします」
2.1.9
など、()こえ()でたまひて、ものあはれにすごく(おも)ひめぐらししをれたまふ。
などと、申し上げなさって、しみじみと索漠とした子持ちで回想し沈んでいらっしゃる。
こんなことを女王に語って、大納言は深く身にしむふうでしおれかえってしまった。
2.1.10
ついでの(しの)びがたきにや花折(はなを)らせて、(いそ)(まゐ)らせたまふ。
折が折とて堪えることができなかったのか、花を折らせて、急いで参上させなさる。
この気持ちが促しもして大納言は、梅の枝を折らせるとすぐに若君を御所へ上がらせることにした。
【ついでの忍びがたきにや】- 語り手の推測。
2.1.11
いかがはせむ
(むかし)(こひ)しき御形見(おほんかたみ)には、この(みや)ばかりこそは。
(ほとけ)(かく)れたまひけむ御名残(おほんなごり)には、阿難(あなん)光放(ひかりはな)ちけむを、二度出(ふたたびい)でたまへるかと(うたが)ふさかしき(ひじり)のありけるを、(やみ)(まど)ふはるけ(どころ)に、()こえをかさむかし」とて、
「しかたない。
昔の恋しい形見としては、この宮だけだ。
釈迦のお隠れになった後には、阿難が光を放ったというが、再来されたかと疑う賢い聖がいたが、闇に迷う悲しみを払うよすがとして、申し上げてみよう」とおっしゃって、
「しかたがない。阿難(あなん)身体(からだ)から光を放った時に、釈迦(しゃか)がもう一度出現されたと解釈した(なま)賢い僧があったということだから、院を悲しむ心の慰めにはせめて匂宮へでも消息を奉ることだ」と言って、
【いかがはせむ】- 以下「聞こえをかさむかし」まで、大納言の詞。
2.1.12 「考えがあって風が匂わす園の梅に
さっそく鴬が来ないことがありましょうか」
心ありて風の(にほ)はす園の梅に
まづ(うぐひす)()はずやあるべき
【心ありて風の匂はす園の梅に--まづ鴬の訪はずやあるべき】- 大納言の詠歌。『完訳』は「「梅」は大納言の中の君、「鴬」は匂宮。二人の縁組を望む歌」と注す。『河海抄』は「あらたまの年行きかへり春立たばまづ我が家戸に鴬は鳴け」(万葉集二十、大伴家持)を指摘。『休聞抄』は「花の香を風の便りにたぐへてぞ鴬誘ふしるべにやせむ」(古今集春上、一三、紀友則)を指摘。
2.1.13
と、(くれなゐ)(かみ)(わか)やぎ()きて、この(きみ)懐紙(ふところがみ)()りまぜ、()したたみて()だしたてたまふを、(をさな)(こころ)に、いと()れきこえまほしと(おも)へば、(いそ)(まゐ)りたまひぬ。
と、紅の紙に若々しく書いて、この君の懐紙にまぜて、押したたんでお出しになるのを、子供心に、とてもお親しくしたいと思うので、急いで参上なさった。
この歌を紅の紙に、青年らしい書きようにしたためたのを、若君の懐紙(ふところがみ)の中へはさんで行かせるのを、少年は親しみたく思う宮であったから、喜んで御所へ急いだ。

第二段 匂宮、若君と語る

2.2.1
中宮(ちゅうぐう)(うへ)御局(みつぼね)より、御宿直所(おほんとのゐどころ)()でたまふほどなり。
殿上人(てんじゃうびと)あまた御送(おほんおく)りに(まゐ)(なか)()つけたまひて
中宮の上の御局から、ご宿直所にお出になるところである。
殿上人が大勢お送りに参上する中から、お見つけになって、
兵部卿の宮が中宮のお宿直(とのい)座敷から御自身の曹司(ぞうし)のほうへ行こうとしていられるところへ按察使(あぜち)大納言家の若君は来た。殿上役人がおおぜいあとからお供して来た中へ混じって来た子供を、宮はお見つけになって、
【殿上人あまた御送りに参る中に】- 殿上人が匂宮を送る。
【見つけたまひて】- 匂宮が若君を。
2.2.2
昨日(きのふ)は、などいと()くはまかでにし。
いつ(まゐ)りつるぞ」などのたまふ。
「昨日は、どうしてとても早く退出したのだ。
いつ参ったのか」などとおっしゃる。
昨日(きのう)はなぜ早く退出したの、今日(きょう)はいつごろから来ていた」などとお尋ねになった。
【昨日は、など】- 以下「参りつるぞ」まで、匂宮の詞。
2.2.3
()くまかではべりにし(くや)しさに、まだ内裏(うち)におはしますと(ひと)(まを)しつれば、(いそ)(まゐ)りつるや」
「早く退出いたしましたのが残念で、まだ宮中にいらっしゃると人が申しましたので、急いで参上したのですよ」
「昨日はあまり早く退(さが)りましたのが残念だったものですから、まだ宮様が御所にいらっしゃると人が言うものですから、急いで」
【疾くまかではべりにし】- 以下「参りつるや」まで、若君の詞。
2.2.4
と、(をさな)げなるものから、()れきこゆ。
と、子供らしいものの、なれなれしく申し上げる。
子供らしくはあるが、若君は親しい調子で申し上げた。
2.2.5
内裏(うち)ならで(こころ)やすき(ところ)にも時々(ときどき)(あそ)べかし。
(わか)(ひと)どもの、そこはかとなく(あつ)まる(ところ)ぞ」
「宮中でなく、気楽な所でも、時々は遊びなさい。
若い人たちが、誰彼となく集まる所だ」
「御所でなくても時々はもっと気楽な家のほうへも遊びに来るがいいよ。若い人がどこからともなくたくさん集まって来る所だよ」
【内裏ならで】- 以下「集まる所ぞ」まで、匂宮の詞。
【心やすき所にも】- 匂宮の私邸の二条院。
2.2.6
とのたまふ。
この君召(きみめ)(はな)ちて(かた)らひたまへば、(ひと)びとは、(ちか)うも(まゐ)らず、まかで()りなどして、しめやかになりぬれば、
とおっしゃる。
この君を一人だけ呼んでお話になるので、他の人びとは、近くには参らず、退出して散って行ったりして、静かになったので、
と宮はお言いになる。この子一人を相手にお話をあそばされるので、他の人たちは遠慮をしてやや遠くへのいていたり、ほかへ行ってしまったりして、静かになった時に、宮が、
2.2.7
春宮(とうぐう)には(いとま)すこし(ゆる)されためりな。
いとしげう(おぼ)しまとはすめりしを、時取(ときと)られて人悪(ひとわ)ろかめり」
「春宮におかれては、お暇を少し許されたようだね。
とてもひどくお目をかけられてお側離さずにいらっしゃったようだが、寵愛を奪われて体裁が悪いようだね」
「東宮様から少し暇がいただけたのだね、君をおかわいがりになってお放しにならないようだったのに、私の所へ来ている間に御寵愛(ちょうあい)を人に奪われては恥だろう」
【春宮には】- 以下「人悪ろかめり」まで、匂宮の詞。
2.2.8
とのたまへば、
とおっしゃるので、
とおからかいになると、
2.2.9
まつはさせたまひしこそ(くる)しかりしか。
御前(おまへ)にはしも」
「お側から離してくださらず困ってしまいました。
あなた様のお側でしたら」
「あまりおまつわりになるので苦しくてなりませんでした。あなた様は」
【まつはさせたまひしこそ】- 以下「御前にはしも」まで、若君の詞。 【たまひし】-給し大御横陽池肖柏本と三条西
2.2.10
と、()こえさしてゐたれば、
と、途中まで申し上げて座っているので、
と子供は言いさして黙ってしまったのをまた宮は冗談(じょうだん)にして、
2.2.11
(われ)をば、(ひと)げなしと(おも)(はな)れたるとな
ことわりなり。
されどやすからずこそ。
(ふる)めかしき(おな)(すぢ)にて、(ひんがし)()こゆなるはあひ(おも)ひたまひてむやと、(しの)びて(かた)らひきこえよ」
「わたしを、一人前でないと敬遠しているのだな。
もっともだ。
けれどおもしろくないな。
古くさい同じ血筋で、東の御方と申し上げる方は、わたしと思い合ってくださろうかと、こっそりとよく申し上げてくれ」
「私を貧弱な無勢力なものだと思って、(きら)いになったって、そうなの。もっともだけれど少しくちおしいね。昔の宮様のお嬢様で、東の姫君という方にね私を愛してくださらないかって、そっとお話ししてくれないか」
【我をば、人げなしと】- 以下「語らひきこえよ」まで、匂宮の詞。主語は大君。
【思ひ離れたるとな】- 「とな」は、「と」格助詞、引用の意と「な」終助詞、詠嘆の意。
【古めかしき同じ筋にて、東と聞こゆなるは】- 『集成』は「世間にもてはやされぬ同じ宮家で、「東」とか、申し上げる方は」。『完訳』は「わたしと同じ古めかしい皇族筋の、東の君と申し上げるというお方が」と訳す。
2.2.12
などのたまふついでに、この(はな)たてまつれば、うち()みて、
などとおっしゃる折に、この花を差し上げると、ほほ笑んで、
こんなことをお言いだしになったのをきっかけにして、若君は紅梅の枝を差し上げた。
【この花を】- 紅梅。
2.2.13 「こちらから恨み言を言った後からだったら」
「私の意志を通じたあとでこれがもらえたのならよかったろう」
【怨みてのちならましかば】- 匂宮の心。『異本紫明抄』は「恨みての後さへ人のつらからばいかにいひてかねをもなかまし」(拾遺集恋五、九八五、読人しらず)を引歌として指摘。
2.2.14
とて、うちも()かず御覧(ごらん)ず。
(えだ)のさま、花房(はなぶさ)(いろ)()()(つね)ならず。
とおっしゃって、下にも置かず御覧になる。
枝の様子や、花ぶさが、色も香も普通のとは違っている。
とお言いになって、宮は珍重あそばすように、いつまでも花の枝を見ておいでになった。枝ぶりもよく花弁の大きさもすぐれた美しい梅であった。
2.2.15
(その)(にほ)へる(くれなゐ)(いろ)()られて、()なむ、(しろ)(むめ)には(おと)れるといふめるを、いとかしこく、とり(なら)べても()きけるかな」
「園に咲き匂っている紅梅は、色に負けて、香は、白梅に劣ると言うようだが、とても見事に、色も香も揃って咲いているな」
「色はむろん紅梅がはなやかでよいが、香は白梅に劣るとされているのだが、これは両方とも備わっているね」
【園に匂へる紅の】- 以下「咲きけるかな」まで、匂宮の詞。『異本紫明抄』は「紅に色をばかへて梅の花香にぞことごと匂はざりける」(後撰集春上、四四、躬恒)。『源注拾遺』は「梅の花香はことごとに匂はねど薄く濃くこそ色は咲きけれ」(後拾遺集春上、五四、清原元輔)を引歌として指摘する。
2.2.16
とて、御心(みこころ)とどめたまふ(はな)なれば、かひありて、もてはやしたまふ。
とおっしゃって、お心をとめていらっしゃる花なので、効があって、ご賞美なさる。
宮がことにお好みになる花であったから、差し上げがいのあるほど大事にあそばすのであった。

第三段 匂宮、宮の御方を思う

2.3.1 「今夜は宿直のようだ。
そのままこちらに」
「今夜は御所に宿直(とのい)をするのだろう。このまま私の所にいるがいいよ」
【今宵は宿直なめり。やがてこなたにを】- 匂宮の詞。若君の装束を見ていう。
2.3.2
と、()()めつれば、春宮(とうぐう)にもえ(まゐ)らず、(はな)()づかしく(おも)ひぬべく(かう)ばしくて、気近(けぢか)()せたまへるを、(わか)心地(ここち)には、たぐひなくうれしくなつかしう(おも)ひきこゆ。
と、呼んだままお離しにならないので、春宮にも参上できず、花も恥ずかしく思うくらい香ばしい匂いで、お側近くに寝かせなさったので、子供心に、またとなく嬉しく慕わしくお思い申し上げる。
こうお言いになってお放しにならぬために、若君は東宮へ伺うこともできずに兵部卿の宮のお曹司(ぞうし)へ泊まることにした。花も羞恥(しゅうち)を感じるであろうと思われるにおいの高い宮のおそば近くに(やす)んでいることを、若君は子供心に非常にうれしく思っていた。
2.3.3 「この花の主人は、どうして春宮には行かれなかったのだ」
「この花の持ち主の方はなぜ東宮へお上がりにならなかったのかね」
【この花の主人は、など春宮には移ろひたまはざりし】- 匂宮の詞。『集成』は「大納言は、中の君を(私でなく)どうして東宮にさし上げる気におなりでなかったのだろう。「花」は紅梅(中の君)、その「主人(あるじ)」は、大納言と見るべきであろう」。『完訳』は「宮の御方はなぜ東宮に参らないのか」と注す。『河海抄』は「春来てぞ人もとひける山里は花こそやどの主人なりけれ」(拾遺集雑春、一〇一五、右衛門督公任)。『孟津抄』は「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主人なしとて春を忘るな」(拾遺集雑春、一〇〇六、菅原道真)「菊の露わかゆばかりに袖濡れて花の主人に千代は譲らむ」(紫式部集)を引歌として指摘。「花」「移ろふ」は縁語。
2.3.4 「存じません。
ものの分かる方になどと、聞いておりました」
「よく存じませんけれど、宮仕えよりも普通の結婚を父母は望んでいるのではございませんでしょうか」
【知らず。心知らむ人になどこそ、聞きはべりしか】- 若君の返事。『源氏釈』は「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」(後撰集春下、一〇三、源信明)。『花鳥余情』は「色も香もまづ我が宿の梅をこそ心知れらむ人は見に来め」(信明集)を引歌として指摘する。
2.3.5
など(かた)りきこゆ。
大納言(だいなごん)御心(みこころ)ばへは、わが(かた)ざまに(おも)ふべかめれ」と()()はせたまへど、(おも)(こころ)(こと)にしみぬれば、この(かへ)りこと、けざやかにものたまひやらず。
などとお答え申し上げる。
「大納言のお気持ちは、実の娘を考えているようだ」と思い合わせなさるが、思っていらっしゃる心は別のほうなので、このお返事は、はっきりとはおっしゃらない。
などと若君はお答えしていた。大納言の希望は自身の娘のほうであることも宮は他から聞き込んでおいでになるのであるが、憧憬(あこがれ)をお持ちになるのは東の女王(にょおう)のほうであったから、花の返事も明瞭(めいりょう)にあそばしたくないお気持ちがあって、
【わが方ざまに】- 実の娘本意に、の意。
2.3.6
翌朝(つとめて)この(きみ)のまかづるに、なほざりなるやうにて、
翌朝、この君が退出する時に、気のりしない態度で、
翌朝若君の帰る時に、感激のないただ事のようにして、
2.3.7 「花の香に誘われそうな身であったら
風の便りをそのまま黙っていましょうか」
花の香に誘はれぬべき身なりせば
花のたよりを過ぐさましやは
【花の香に誘はれぬべき身なりせば--風のたよりを過ぐさましやは】- 匂宮の大納言の贈歌への返歌。『集成』は「一応卑下して見せた体。贈歌と同じ『古今集』の歌(花の香を風のたよりにたぐへてぞ鴬さそふしるべにはやる)による」。『完訳』は「不似合いな自分だからとして断った歌」と注す。
2.3.8
さて、「なほ(いま)は、(おきな)どもにさかしらせさせで、(しの)びやかに」と、(かへ)(がへ)すのたまひて、この(きみ)も、(ひんがし)のをばやむごとなく(むつ)ましう(おも)ひましたり。
そうして、「やはり今は、老人たちに出しゃばらせずに、こっそりと」と、繰り返しおっしゃって、この君も、東の御方を、大切に親しく思う気持ちが増した。
こんな歌をおことづてになるのであった。「大人(おとな)などには話さないで、そっと女王さんに私の言ったことを取り次ぐのだよ」と返す返す宮は仰せられた。
【なほ今は、翁どもに】- 以下「忍びやかに」まで、匂宮の詞。こっそりと宮の御方にわたりをつけてほしい、意。
【東のをば】- 宮の御方をさす。
2.3.9
なかなか異方(ことかた)姫君(ひめぎみ)()えたまひなどして、(れい)兄弟(はらから)のさまなれど、童心地(わらはごこち)に、いと(おも)りかにあらまほしうおはする(こころ)ばへを、かひあるさまにて()たてまつらばや」と(おも)ひありくに、春宮(とうぐう)御方(おほんかた)の、いとはなやかにもてなしたまふにつけて、(おな)じこととは(おも)ひながら、いと()かず口惜(くちを)しければ、この(みや)をだに、気近(けぢか)くて()たてまつらばや」と(おも)ひありくに、うれしき(はな)のついでなり。
かえって他の姫君たちは、お顔をお見せになったりして、普通の姉弟みたいな様子であるが、子供心に、とても重々しく理想的でいらっしゃるご性質を、「お世話しがいのある方と結婚させてあげたいものだ」と日頃思っていたが、春宮の御方が、たいそう華やかなお暮らしでいらっしゃるのにつけて、同じ嬉しいこととは思うものの、とてもたまらなく残念なので、「せめてこの宮だけでも身近に拝見したいものだ」と思ってうろうろしている時に、嬉しい花の便りのきっかけである。
若君も東の姉君を他の姉よりも愛しているのであって、かえって他の姉たちは顔も見せるほどにして近づかせ、普通の家の兄弟と変わらないのであるが、重々しい上品さのある女王を、幸福の多い、はなやかな境遇に置いてみたいと常に望んでいるのに、太子の後宮へはいった姉が両親からはなばなしく扱われるのを見て、それも姉なのであるからよいわけであっても、不満足な気がするために、せめてこの宮を東の女王の良人(おっと)にしてみたいと心がけている時に、うれしい花の使いをすることになったのである。
【なかなか異方の姫君は】- 異腹の大君、中君をさす。
【いと重りかにあらまほしう】- 宮の御方の性質をさす。
【かひあるさまにて見たてまつらばや】- 若君の心。宮の御方と匂宮の結婚を望む。
【春宮の御方】- 紅梅大納言の大君。麗景殿女御。
【この宮をだに、気近くて見たてまつらばや】- 若君の心中。匂宮を姉宮の御方の婿君として拝したい、意。

第四段 按察使大納言と匂宮、和歌を贈答

2.4.1 これは、昨日のお返事なのでお見せ申し上げる。
昨日は大納言から歌をお贈りしたのであるから、まず宮のお返事を若君は父に見せた。
【これは、昨日の御返りなれば見せたてまつる】- 『集成』は「心進まぬながら、の気持」と注す。
2.4.2
ねたげにものたまへるかな
あまり()きたる(かた)にすすみたまへるを(ゆる)しきこえずと()きたまひて、(みぎ)大臣(おとど)われらが()たてまつるには、いとものまめやかに、御心(みこころ)をさめたまふこそをかしけれ。
あだ(びと)とせむに()らひたまへる(おほん)さまを、しひてまめだちたまはむも、見所少(みどころすく)なくやならまし」
「憎らしくもおっしゃるなあ。
あまりに好色な方面に度が過ぎていらっしゃるのを、お許し申し上げないとお聞きになって、右大臣や、わたしどもが拝見するには、とてもまじめに、お心を抑えていらっしゃるのがおもしろい。
好色人というのに、資格十分なご様子を、無理してまじめくさっていらっしゃるのも、見所が少なくなることになろうに」
「おじらしになる歌だね。あまりに多情な御生活をされることに感心しないでいることをお聞きになって、左大臣や自分などに対しては慎しみ深くお見せになるのがおかしい。浮気(うわき)男におなりになるのもやむをえないほどきれいに生まれておいでになる方が、まじめ顔をされてはかえってお価値(ねうち)も下がるだろうが」
【ねたげにものたまへるかな】- 以下「見所少なくやならまし」まで、大納言の詞。
【あまり好きたる方にすすみたまへるを】- 『集成』は「あまりに風流好みの度が過ぎていらっしゃるのを」。『完訳』は「あまりに好色がましくいらっしゃるのを」と訳す。
【あだ人とせむに】- 『集成』は「粋人と申しても」。『完訳』は「好色人の資格も」と注す。
2.4.3
など、しりうごちて、今日(けふ)(まゐ)らせたまふにまた、
などと、悪口を言って、今日も参らせなさる折に、また、
などと陰口(かげぐち)をしながら、今日も御所へ出す若君にまた、
【今日も参らせたまふに】- 大納言が若君を匂宮のもとへ。
2.4.4 「もともとの香りが匂っていらっしゃるあなたが袖を振ると
花も素晴らしい評判を得ることでしょう
(もと)つ香の(にほ)へる君が(そで)なれば
花もえならぬ名をや散らさん
【本つ香の匂へる君が袖触れば--花もえならぬ名をや散らさむ】- 大納言から匂宮への贈歌。「花」は娘の中君を喩える。『花鳥余情』は「元の香のあるだにあるを梅の花いとど匂ひの遥かなるかな」(兼輔集)を引歌として指摘する。
2.4.5
とすきずきしや。あなかしこ」
と好色がましく、
風流狂のようでございますがお許しください。
2.4.6
と、まめやかに()こえたまへり。
まことに()ひなさむと(おも)ふところあるにやと、さすがに御心(みこころ)ときめきしたまひて、
と、本気にお申し込みになった。
本当に結婚させようと考えているところがあるのだろうかと、そうはいってもお心をときめかしなさって、
こんなふうな消息をあかずに書いて持たせてあげた。遊びの気分でなくまじめに娘の所へ自分を誘おうとするのであろうかと、さすがに宮は興奮をお感じになった。
【まことに】- 以下「あるにや」まで、匂宮の心中。
2.4.7 「花の香を匂わしていらっしゃる宿に訪ねていったら
好色な人だと人が咎めるのではないでしょうか」
花の香を匂はす宿に()め行かば
色に()づとや人の(とが)めん
【花の香を匂はす宿に訪めゆかば--色にめづとや人の咎めむ】- 匂宮の返歌。
2.4.8
など、なほ(こころ)とけずいらへたまへるを、(こころ)やましと(おも)ひゐたまへり
など、やはり胸の内を明かさないでお答えなさるので、憎らしいと思っていらっしゃった。
と、まだ受け入れがたい気持ちを書いてお返しになったのを、大納言は飽き足らず思った。
【心やましと思ひゐたまへり】- 主語は大納言。『集成』は「不満に思っていられる」。『完訳』は「もどかしいお気持でいらっしゃる」と訳す。
2.4.9
(きた)(かた)まかでたまひて内裏(うち)わたりのことのたまふついでに、
北の方が退出なさって、宮中辺りのことをおっしゃる折に、
真木柱(まきばしら)夫人が帰って来て、御所であった話をした時に、
【北の方まかでたまひて】- 真木柱。継娘の大君に付き添っていた。
2.4.10
若君(わかぎみ)一夜(ひとよ)宿直(とのゐ)して、まかり()でたりし(にほ)ひの、いとをかしかりしを、(ひと)はなほと(おも)ひしを、(みや)の、いと(おも)ほし()りて兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)(ちか)づききこえにけり。
うべ、(われ)をばすさめたり』と、けしきとり、(ゑん)じたまへりしか。
ここに、御消息(おほんせうそこ)やありし
さも()えざりしを」
「若君が、先夜、宿直をして、退出した時の匂いが、とても素晴らしかったので、人は普通の香と思ったが、東宮が、よくお気づきなさって、『兵部卿宮にお近づき申したのだ。
なるほど、わたしを嫌ったわけだ』と、様子を理解して、恨んでいらっしゃった。
こちらに、
お手紙がありましたか。そのようにも
「若君がいつかお(かみ)のお宿直をいたしまして、翌朝東宮様へまいりました時に、よい香がついておりましたのを、だれもそんなことを気づかずにおりましたのに東宮様はすぐお悟りになりまして、兵部卿の宮の所へ伺っていたのだろう、だから冷淡にして私の所へは来なかったのだと冗談(じょうだん)をおっしゃいまして、おかしゅうございました。宮様からお手紙でもまいったのでございますか」
【若君の】- 以下「見えざりしを」まで、北の方の詞。
【宮の、いと思ほし寄りて】- 東宮がすばやく気がついて、の意。
【兵部卿宮に】- 以下「我をばすさめたり」まで、東宮の詞を引用。
【ここに、御消息やありし】- こちらから匂宮に手紙を差し上げなかったか、の意。
2.4.11
とのたまへば、
とおっしゃると、
こんなことを良人に問うた。
2.4.12
さかし
(むめ)(はな)めでたまふ(きみ)なれば、あなたのつまの紅梅(こうばい)いと(さか)りに()えしを、ただならで、()りてたてまつれたりしなり。
(うつ)()は、げにこそ(こころ)ことなれ。
()れまじらひしたまはむ(をんな)などは、さはえしめぬかな
「その通り。
梅の花を賞美なさる君なので、あちらの建物の端の紅梅が、たいそう盛りに見えたのを、放っておけず、折って差し上げたのです。
移り香は、なるほど格別です。
晴れがましい宮中勤めをなさるような女君などは、あのようには焚きしめられないな。
「そう。梅の花がお好きな方だから、あちらの座敷の前の紅梅が盛りで、あまりきれいだったから折って差し上げたのです。宮のお移り香は実際馥郁(ふくいく)たるものだね。後宮の方たちだってああも巧妙に()きしめることはできないらしいがね。
【さかし】- 以下「さることぞかし」まで、大納言の詞。
【晴れまじらひしたまはむ女などは、さはえしめぬかな】- 『完訳』は「晴れがましい宮廷勤めをなさるような女なども、あんなにはたきしめられない。やや不審の行文」と注す。
2.4.13
源中納言(げんちゅうなごん)かうざまに(この)ましうはたき(にほ)はさで、人柄(ひとがら)こそ()になけれ。
あやしう、(さき)()(ちぎ)りいかなりける(むく)いにかと、ゆかしきことにこそあれ。
源中納言は、このように風流に焚きしめて匂わすのではなく、人柄が世に又とない。
不思議と、前世の宿縁がどんなであったのかと、知りたいほどだ。
源中納言のはそうした人工的の香ではなくて、自身の持っている芳香が高いのですよ。どんなすぐれた前生の因縁で生まれた人なのだろう。
【源中納言は】- 薫。
2.4.14
(おな)(はな)()なれど、(むめ)()()でけむ()こそあはれなれ
この(みや)などのめでたまふ、さることぞかし」
同じ花の名であるが、梅は生え出た根ざしが大したものだ。
この宮などが賞美なさるのは、もっもなことだ」
同じ花だがどんな根があって高い香の花は咲くのかと思うと梅にも敬意を表したくなるからね。梅は匂宮(におうみや)がお好みになる花にできていますね」
【梅は生ひ出でけむ根こそあはれなれ】- 『集成』は「(芳香のある)梅は、生い出たものとねざしがゆかしく思われることです。薫の前世の因縁ということから、梅はどうしてあれほどの芳香あるのだろうか、と言う」と注す。『完訳』は「梅は生き立ちの素姓が殊勝ですね」と訳す。
2.4.15
など、(はな)によそへても、まづかけきこえたまふ。
などと、花にかこつけて、まずはお噂申し上げなさる。
花の話からもまた兵部卿の宮のことを言う大納言であった。

第五段 匂宮、宮の御方に執心

2.5.1
(みや)御方(おほんかた)は、もの(おぼ)()るほどにねびまさりたまへれば、(なに)ごとも見知(みし)り、()きとどめたまはぬにはあらねど、(ひと)()え、()づきたらむありさまは、さらに」と(おぼ)(はな)れたり
宮の御方は、物の分別がおつきになるくらいご成人なさっているので、どのようなことでもお分りになり、噂を耳になさっていらっしゃらないではないが、「人と結婚し、普通の生活を送ることは、けっして」と思い離れていた。
東の女王は細かい感情ももう皆備わる妙齢になっているのであるから、匂宮がお寄せになる好意を気づかないのではないが、結婚をして世間並みな生活をすることなどは断念していた。
【人に見え、世づきたらむありさまは、さらに」と思し離れたり】- 『完訳』は「結婚して世間並に暮すのは。連れ子のきびしい状況に置かれてもいるが、控え目すぎる性格からも結婚には無関心」と注す。
2.5.2
()(ひと)も、(とき)()(こころ)ありてにやさし(むか)ひたる御方々(おほんかたがた)には(こころ)()くし()こえわび、(いま)めかしきこと(おほ)かれど、こなたは、よろづにつけ、ものしめやかに()()りたまへるを、(みや)は、(おほん)ふさひの(かた)()(つた)へたまひて、(ふか)う、いかで、と(おも)ほしなりにけり。
世間の男性も、時の権勢に追従する心があってだろうか、本妻の姫君たちには熱心に申し込み、はなやかな事が多いが、こちらの方には、何かにつけて、ひっそりと引き籠もっていらっしゃったのを、宮は、おふさわしい方と伝え聞きなさって、心底、何とかして、とお思いになってしまった。
世間もまのあたり勢力のある父の子である方を好都合であるように思うのか、西の姫君のほうへは求婚者が次ぎ次ぎ現われてきて、はなやかな空気もそこでは作られるが、こちらは(かげ)の国のように引っ込んで暮らしている様子を、匂宮はお聞きになって、御自身の趣味にかなった相手とますますお思いになることになり、
【世の人も、時に寄る心ありてにや】- 「にや」語り手の推測を介在させた句。
【さし向ひたる御方々には】- 両親揃っている姫君たちの意。大納言の大君・中君には継母ではあるが二親揃っている。しかし宮の御方は連れ子で片親であるという文脈。『集成』は「現に父君のいらっしゃる姫君たちには」。『完訳』は「本妻腹の御方々には」と訳す。
【御ふさひの方に】- 「ふさひ」は、ふさわしい意。
2.5.3
若君(わかぎみ)を、(つね)にまつはし()せたまひつつ、(しの)びやかに御文(おほんふみ)あれど、大納言(だいなごん)(きみ)(ふか)(こころ)かけきこえたまひて「さも(おも)ひたちてのたまふことあらば」と、けしきとり、(こころ)まうけしたまふを()るに、いとほしう、
若君を、いつも側を離さず近づけなさっては、こっそりとお手紙をやるが、大納言の君が、心からお望みになって、「そのようにお考えになってお申し込まれることがあるならば」と、様子を理解して、準備なさっているのを見ると、気の毒になって、
始終大納言家の若君をお呼び寄せになっては、そっと手紙をおことづてになるのを、大納言はこの宮を二女の婿に擬して、お申し込みさえあればと用意もしていることで夫人は心苦しく思って、
【大納言の君、深く心かけきこえたまひて】- 『集成』は「夫の大納言は。以下、匂宮の文通のことを知っての北の方(真木柱)の思い。それで「大納言の君」という」と注す。
2.5.4
ひき(たが)へてかう(おも)()るべうもあらぬ(かた)にしも、なげの(こと)()()くしたまふ、かひなげなること」
「予想に反して、このように結婚を考えてもいない方に、かりそめにせよ、お手紙をたくさんくださるが、効のなさそうなこと」
「行き違いになって、そんな気持ちなどをまったく持っていない人のほうへいろいろと好意を寄せた手紙をくだすってもむだなことなのに」
【ひき違へて】- 以下「かひなげなること」まで、北の方の詞。
2.5.5
と、(きた)(かた)(おぼ)しのたまふ。
と、北の方もお思いになりおっしゃる。
こんなことを言うことがあった。
2.5.6
はかなき御返(おほんかへ)りなどもなければ、()けじの御心添(みこころそ)ひて、(おも)ほしやむべくもあらず。
(なに)かは、(ひと)()ありさま、などかは、さても()たてまつらまほしう、()先遠(さきとほ)くなどは()えさせたまふに」など、(きた)方思(かたおも)ほし()時々(ときどき)あれど、いといたう(いろ)めきたまひて、(かよ)ひたまふ(しの)所多(どころおほ)く、(はち)(みや)姫君(ひめぎみ)にも御心(みこころ)ざしの(あさ)からで、いとしげうまうでありきたまふ。
(たの)もしげなき御心(みこころ)の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめやかには(おも)ほし()えたるをかたじけなきばかりに(しの)びて、母君(ははぎみ)ぞ、たまさかにさかしらがり()こえたまふ。
ちょっとしたお返事などもないので、負けてたまるかとのお考えも加わって、お諦めになることもおできになれない。
「何の遠慮がいるものか、宮のお人柄に何の不足があろう、そのように結婚させてお世話申し上げたい、将来有望にお見えになるのだから」など、北の方はお思いになることも時々あるが、とてもたいそう好色人でいらして、お通いになる所がたくさんあって、八の宮の姫君にも、お気持ちが並々でなく、たいそう足しげくお通いになっている。
頼りがいのないお心で、浮気っぽさなども、ますます躊躇されるので、本気になってはお考えになっていないが、恐れ多いばかりに、こっそりと、母君が時折さし出てお返事申し上げなさる。
少しのお返事すらも女王のせぬことでいよいよ宮はおいらだちになって、負けたくないお気持ちも出て、より多く熱の加わった手紙を書いてお送りになるのであった。良人(おっと)を失望させてもしかたがない、婿にしてみたい気のする輝かしい未来も予想される方であると思って、夫人は時々どうしようかという気になることもあるのであるが、あまり多情で、恋人を多くお持ちになり、八の宮の姫君にも執心されてたびたび宇治にまでお出かけになることも(うわさ)されるのであるから、女王のために頼もしい良人になっていただけるとは思われない、不幸な境遇の娘であるから、もし結婚をさせることになれば万全の縁でなければ人笑われになるばかりであると、だいたいの心はお断わりすることにきめてしまって、御身分柄のもったいなさに、母として夫人が時々お返事を出したりだけはしていた。
【何かは、人の】- 以下「見えさせたまふに」まで、北の方の心中。匂宮と宮の御方を許す気持ち。
【八の宮の姫君にも】- 宇治八の宮の中君。『新大系』は「桐壺院の第八皇子であることが橋姫巻で紹介される。ここで唐突にも「八の宮の姫君」に匂宮が通うことが記されていることで、当巻の成立・巻序・年立などでさまざまな問題を生む」と注す。
【まめやかには思ほし絶えたるを】- 主語は北の方。
【かたじけなきばかりに】- 『完訳』は「匂宮の高貴な身が畏れ多いとだけ。体よく断る口実である」と注す。
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 2/17/2002
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
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ローマ字版 Last updated 11/09/2010 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
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挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 2/24/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
砂場清隆(青空文庫)
2004年3月17日
渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経
2005年10月4日
Last updated 11/9/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
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